起し太鼓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 14:22 UTC 版)
文献の上では、1831年(天保2年)に初めて登場する。通常例祭が行われる際には祭の開始を告げるために氏子地内を太鼓を鳴らして回る風習は各地に見られるが(朝太鼓・目覚まし太鼓・一番太鼓)、この太鼓行事そのものが独立した行事となったことが特徴的である。4月20日の本楽祭の開始を告げるために、19日の深夜から太鼓を鳴らして氏子地内を巡ったことが始まりである。太鼓を乗せた櫓を「起し太鼓主事」と呼ばれる当番組が担ぐ。その太鼓の上の両側に男がまたがり、その両側より交互に太鼓を鳴らす。この太鼓をめがけて各台組の付け太鼓(現在は12本存在する)と呼ばれる小さな太鼓が突入する。この付け太鼓は幕末頃より加わったものといわれ、元来この地域の人々は「古川ヤンチャ」といわれる激しい気性が有名であり、これによって起し太鼓も非常に荒々しいものとなった。そのため幾度となく「付け太鼓禁止」が出されたが、1901年(明治34年)に解禁になり現在に至る。 明治時代の起し太鼓では櫓に鉤を引っ掛けて荒城川に引きずり落としたことがあるようである。 1884年(明治17年)の例祭では付け太鼓禁止に不満を持つ者たちが、「助太鼓」の名目で強行参加した。 1906年(明治39年)台組同士のケンカに端を発し警察分署への投石が始まり、窓ガラス49枚を割る。 1929年(昭和4年)日頃の警察の取締りに対する不満から、櫓ごと警察署に突入及び投石が行われた。
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