資本主義と共産主義の中央集権経済の問題点
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「進歩的活用理論」の記事における「資本主義と共産主義の中央集権経済の問題点」の解説
サーカーによれば、「世界のほとんどの国は、資本主義国、共産主義国を問わず、経済的な中央集権政策をとってきました。資本主義諸国の経済は少数の資本家や少数の資本化団体に集権化し、共産主義諸国の経済は党に集権化しています。実は、中央集権化した経済においては経済的搾取を根絶することができず、一般の人々の経済問題を永久に解決できません」。 ここでサーカーが中央集権経済であるということの意味は、“地元の人々が経済政策の決定権を持たない”という点であるということ。また、中央集権経済が経済的搾取を根絶する事が出来ないということの意味は、“ある地域の人間が、別の地域の人間を利用し搾取する事”が無くならないからということである。 資本主義諸国においてはまさに、多国籍企業の行い様がそうであるわけである。先進国のある企業が立てたある商品のある国の地域に対する投資や生産計画はその地域の必要性や福利という観点に基づいているものではなく、その地域の安い労働力を利用して生産しその地域の人々を搾取するという場面を多く目撃する。たとえその企業が良心的でその地域の必要性や福利を考えようとしても、その国の地域の人間でなければ実際のところ真の必要や福利になる投資や生産計画は遠く離れた国の別の人間はわからないわけである。今日の経済のグローバル化の問題である。 そこで、プラウトの分権経済や均衡経済という考え方が出てくるのである。バトラの“関税の無い自由貿易は害悪を及ぼす”という具体的な主張もこの考え方から来ている。(プラウトの基本政策 の項で詳述) また、共産主義諸国においても、その共産主義(旧ソ連型マルクス主義)の中央集権経済も本質的には“国家資本主義”であるとサーカーは述べる。「共産主義は国家資本主義です。そのため、共産主義が資本主義の欠陥を免れることができないのです。国家資本主義は、私的資本主義や集団資本主義のように工業をコントロールします。国家資本主義は、国家が工業をコントロールすることを意味します。言い換えれば、国家資本主義において工業は中央集権的です。共産主義諸国は、国家資本主義を支持します。それは中央集権的な生産を意味します。 共産主義は、大衆の解放の問題について資本主義とは異なっているように思えますが、資本主義と共産主義は内部では同じです。同じ種の果実は異なる色をしていますが、その種は同じです。資本主義と共産主義は同じ種の果実なのです。人間の社会的経済的解放を実現するためには、社会経済的に最高度の分権化が必要不可欠です」。 ある学者は、この従来の資本主義や共産主義が人間の霊性をも捉えた真の人間幸福の社会を実現出来ないでいるのは、どちらも近代機械論的な唯物論の哲学を土台として生まれていた社会思想であったからだと指摘している。 機械論的な発想によって中央集権トップダウン的な社会システムが生み出され、唯物論による人間観と社会観で人間を単なる“物欲金欲ロボット”としてしか捉えず、資本主義はそれを煽ることで経済の原動力とし、共産主義は”物質的に平等に人々に充足する”社会にすることが人々を幸福にし人間解放するという、そこには、物質的観点だけでしか考えていない、狭い世界観があるからであると指摘する。 一方で、プラウトは“スピリチュアリティー(霊性的、精神的)で道徳的な哲学”を土台としている。 プラウトは、人間には“物理的な側面”と“知的な側面”と“霊的(精神的)な側面”があるとして、有限性(閉鎖系)のある物理的な側面よりも、無限性(開放系)のある知的な側面や霊的な側面を伴うことを考慮した人間社会が、真の人間の幸福(人間解放)や進歩をもたらすという人間観と社会観を持っている。 また、分権経済や均衡経済の考え方はその哲学であるプラマーを背景としている。(プラウトのスピリチュアルな哲学 の項で詳述)
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