負債、独裁と亡命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 23:51 UTC 版)
「アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ」の記事における「負債、独裁と亡命」の解説
アメリカ合衆国での亡命の間に、アメリカ合衆国大統領アンドリュー・ジャクソンに1837年に会見したあと、サン・タナはUSS「パイオニア号」でメキシコへ帰国することが許可された。「マンガ・デ・クラボ(Manga de Clavo)」と呼ぶ彼の農場経営を引退するために。 1838年、サンタ・アナはテキサス喪失を贖うチャンスを得た。メキシコがフランスからの在留フランス人が被った被害の補償の金融的請求をメキシコが拒否したあと、フランスは派兵し、ベラクルスに上陸した(菓子戦争)。 メキシコ政府は彼に軍の指揮権を与え、彼に必要な手段で国民を守るよう命令した。彼はベラクルスでフランス軍と交戦した。 メキシコ軍が退却の際、略奪に失敗したあと、サンタ・アナは左足と手に砲撃を受けた。彼のくるぶしは粉砕され、足の切断が必要となった。彼は切断された足を軍礼をもって埋葬するように命令した。メキシコはフランスの要求に屈したにも関わらず、サンタ・アナは戦争を英雄としてメキシコ政界への復帰に使った。彼は、メキシコが祖国防衛の際の彼と彼の犠牲を忘れることを決して許さなかった。 サンタ・アナはコルクの義足を使用していることで有名である。米墨戦争のときに、彼の義足はアメリカ軍に奪いさられた。コルクの義足はイリノイ州立軍事博物館(スプリングフィールド)で展示されている。メキシコ政府は再三にわたりその返還を求めている。サンタ・アナが作った代わりの義足はメキシコ国立歴史博物館(メキシコシティ)に展示されている。 アナスタシオ・ブスタマンテ政権が混乱に陥った直後に、カトリックの支持者はサンタ・アナに暫定政府を創設することを求めた。国庫が空の国家を受け継ぎ、サンタ・アナは5度にわたり大統領になった。フランスのとの戦争はメキシコの弱体化し、人々のあいだに不満がわいていた。またホセ・デ・ウレアとホセ・アントニオ・メヒアに率いられた反乱軍はサンタ・アナに反対し、首都に進軍した。 軍を指揮し、サンタ・アナはプエブラで反乱軍を破った。 このときのサンタ・アナの政権は彼の初めての政権よりもいっそう独裁的であった。反サンタ・アナの新聞は追放され投獄された。1842年に、彼はテキサス遠征を指揮したが、それはメキシコにとって何も得るものなく、アメリカ合衆国は強くテキサス人にアメリカへの編入の潜在的利益を説得していた。サンタ・アナは1842年の議会選挙をコントロールできなかった。新しい議会は独裁的な指導者に強く反対する信条の人々で構成されていた。 財政の立て直しに取り掛かり、サンタ・アナはテキサスを取り戻そうとしたがこれは抵抗をまねいた。メキシコの州の中には中央政府との関係を止めたものもあった。ユカタン共和国とリオグランデ共和国は独立を宣言した。抵抗は大きくなり、サンタ・アナは権力の座から引きずり下された。 身の危険を感じ、彼は捕縛からまぬかれようとしたが、1845年1月に彼はベラクルス州のヒコ近くの先住民の集団によって逮捕された。彼らによって、サンタ・アナは当局に引き渡され投獄されたが、命は助けられ、キューバに亡命した。
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