評価の修正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:14 UTC 版)
米国幕僚長会議はマウントバッテンが1月に提出した新作戦計画によりビルマ北部戦域の優先度が引き下げられることを危惧し、1944年(昭和19年)2月17日に、英国幕僚長会議に北部作戦の再開を要求した。元々ビルマでの攻勢に消極的な英国幕僚長会議は、マウントバッテンの意見があるまで回答を差し控えたが、その回答を要約すると 既に全兵力をビルマに投入している。 スマトラでの作戦のための戦力は何も留保していない。 従って米国の目標を達成することはできない。 米国幕僚長会議はスティルウェルに引きずられている可能性があるのでマーシャル参謀総長による保証が必要。 というものだった。 なおルーズベルトも米国幕僚長会議同様にミイトキイナの占領要求をチャーチルに打電したが、チャーチルは欧州戦終結前の実施は不可という従来の回答を繰り返した。 1944年3月になると、アラカンおよびフーコン峡谷で日本陸軍を撃破したことで、連合国側での日本軍に対する評価は下方修正された。またこの時点で航空偵察などの情報を総合し、日本軍の目標がインパールであることを察知していた。その顕著な例は3月21日の米国幕僚長会議決定で、英国側に北部ビルマでの活発な作戦行動を求める内容となっている。また、太平洋方面で英艦隊の増強が不要となったことも新材料であった。 これらの情勢を勘案し、チャーチルは国内の論争を裁定するための案を出した。その内容は東洋艦隊の増強と東南アジアでの新たな攻勢計画の立案の提示が主であり、英統合計画幕僚委員会は「中間戦略」と称してこの具体化を進めようとした。オーストラリア=チモール=セレベス=ボルネオ=サイゴンを軸線とし、マッカーサーの全般指揮の下その進撃を支援する内容で1944年7月頃まで議論されたが、実現には至らなかった。
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