計画から開業まで
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高尾山のケーブルカーは高尾山薬王院の27世貫首・武藤範秀の発案によるものとされている。当時、高尾山薬王院の信徒は30万人といわれており、参拝をするために中央本線浅川駅(現在の高尾駅)から高尾山の山麓まで歩き、さらに険しい山道を登るという苦難を強いられていた。 この状況に武藤は高尾山への交通機関の必要性を唱え、元浅川村長・高城正次ら地元有力者とケーブルカーの敷設免許を申請した。その後、武藤は1年間にわたり宗教事情調査のためインドや欧州に行き、その際に見聞したケーブルカーの資料を高城らに送り、ケーブルカー敷設の計画を推進した結果、1921年(大正10年)8月にケーブルカー事業免許が下付されることとなった。同年9月に高尾索道株式会社を資本金30万円で設立し、初代社長には紅林七五郎が就任した。 しかし実際の開業までには時間を要した。高尾山は官有林であり、宮内省帝室林野管理局の管轄にあったため、森林の伐採や用地の借用に煩雑な手続きと手間を必要とした。さらに、当時国内で開業していたケーブルカーは生駒鋼索鉄道のみであり、技術的な問題もあった。その上関東大震災により高尾山駅予定地が崩壊したため、経路の変更などを余儀なくされた。 1925年(大正14年)5月31日、社名を高尾登山鉄道に変更。同年6月30日、苦難の末ようやく工事に着手し、翌1927年(昭和2年)1月21日、清滝駅 - 高尾山駅間のケーブルカーが開業した。
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計画から開業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 15:25 UTC 版)
来迎寺側からは魚沼鉄道(後の国鉄魚沼線)から続く形で新魚沼鉄道として計画され、1914年(大正3年)3月3日に長岡市の木村松二郎の申請により中貫鉄道として設立した。同年8月7日に長岡市の清水常作らが申請した長岡鉄道と合併し社名を変更した。当初、信濃川を渡り国鉄長岡駅へ接続する計画だったが長大な鉄橋の建設費を確保できずに挫折。そのため西長岡で来迎寺側へ向かう線路と寺泊側へ向かう線路がスイッチバックする線形となった。なお、長岡駅から蔵王、与板を経て大河津で越後鉄道(現JR越後線)に接続し寺泊へ至る、三国街道を辿る経路も候補に上がっていた。 路線の選定に関して、地元では鉄道により疫病や犯罪がもたらされる迷信や、蒸気機関の煤煙・騒音等を危惧して敷設反対の動きが根強くあったため、与板以外は街中に敷設できずほぼ全線が田園地帯を走っていたと鉄道忌避説により説明される。与板町内は線路は街中を通っていたものの、町中心部が既に住宅地であったため与板駅の用地買収は難航し、結局街外れに設置されたことで利便性が悪かった。また長岡鉄道の開業により、それまで旅客・貨物輸送の中心を担っていた信濃川・黒川を利用した蒸気船等による船運は衰退を余儀なくされている。
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