計画から部分開業まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 13:53 UTC 版)
奈良県の吉野川流域には大阪鉄道 (初代) が当初の広大な計画の一部として路線を建設するものと期待されていたが、実現は困難であることが明らかとなったため、明治20年大阪鉄道発起人は一旦願書を提出したのち、その計画を縮小し、高田和歌山間は取り消した。地元では独自資本で南和鉄道を高田から五条まで建設し開業した。これに接続する路線として計画されたのが紀和鉄道である。 1897年(明治30年)3月14日に五條町二見において起工式を挙行し、和歌山側と五条側から着工した。五条から吉野川沿いの初代二見駅まで延びる南和鉄道の貨物線の途中に接続点を設け、五条からこの地点までを全線開業まで仮に共用とした。1898年(明治31年)4月11日に最初の開業区間として五条 - 橋本間6マイル1チェーン(約9,674 m)が開通した。和歌山側でも同時に建設を進めていたこともあり、南和鉄道と接続しているこの区間は当初南和鉄道に営業が委託されたが、まだ距離の短いこの区間は旅客・貨物ともに少ないのに南和鉄道側の輸送量に合わせた編成で列車を直通するため、車両使用料の支払いがかさんで紀和鉄道にとって不利であるとし、1899年(明治32年)3月末日限りで営業委託を解除し、4月1日から直営とした。この間の損失は約4,500円に上ったという。 続いて和歌山側の区間で、和歌山(後の紀和駅) - 船戸間6マイル69チェーン(約11,040 m)を1898年(明治31年)5月4日に開業した。この時の船戸駅は仮の位置で、翌1899年(明治32年)1月1日に線路が46チェーン(約925 m)延長されて現在の位置に船戸駅が開設された。
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