蒲生と岩井の盛衰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 23:49 UTC 版)
「蒲生川 (鳥取県)」の記事における「蒲生と岩井の盛衰」の解説
Clip かつて岩井町役場があった岩井温泉付近からの上流側を望む 蒲生川の流域は古来から「巨濃郡(このこおり)」と称し、中世に「岩井郡」と改められた。改名の時期は明確な史料に乏しく、諸説あり定まらないが、戦国期に岩井城が因幡国と但馬国の境を守る要衝となったことで岩井郡が通称となり、江戸時代に「岩井郡」が定まったと考えられている。郡衙の位置も複数の説があり、いまの岩井温泉付近とする説と、小田川との合流付近の新井地区とする説がある。 いまの蒲生地区は「蒲生郷」と呼ばれており、平安時代には石清水八幡宮の広大な荘園があって「巨野別宮」と呼ばれていた。蒲生地区に隣接する馬場地区は八幡宮の流鏑馬神事を行う場所だったと伝えられている。また、馬場付近の蒲生川左岸には石室を伴う古墳がいくつか見つかっている。かつて蒲生別宮はかなり広い所領を有していたが、中世を通じて「宇治」地区や温泉のあるあたりが栄えるようになり、「蒲生別宮」と「宇治別宮」が区別されるようになっていった。 馬場地区の下流で右岸から合流する白地川の河岸段丘には白地地区がある。延喜年間(901-923)の大洪水で家を失った生き残りが拓いた集落と伝えられており、白い粘土を産したことから白地と称するようになったとされている。また、硯石の産地として知られる。戦国期には白地城が築かれて尼子家臣の安藤信濃守が入り、豊臣秀吉による上月城攻略に参加した。 江戸時代には蒲生地区に関所がおかれたり後述する鉱山によってある程度栄えた。しかし鉱山が江戸時代には下火になっていったのに対し、宇治地区付近の岩井温泉が街道の宿場として繁盛するようになり、地域の中心地は温泉のある岩井地区へ移っていった。 蒲生川左岸の岩井温泉にはかつて岩井町役場があり、岩井郡の中心地だった。平安時代から右岸の宇治のほうに宇治荘があり、もともとは蒲生荘(蒲生別宮)とは区別されていなかったのが、しだいに別のものになっていったものと考えられている。宇治地区と長谷地区のなかほどには7世紀頃の岩井廃寺跡があり、国の史跡に指定されている。岐阜県岩井の延算寺の本尊(重要文化財)は巨濃郡岩井から移されたと伝えられており、岩井廃寺がその寺に比定されている。平安時代から鎌倉時代にかけては宇治地区の「宇治長者」に関する伝承があり、長者と岩井廃寺と結びつける説もあれば、両者には時代的な隔たりがあって関連性を否定する説もある。 岩井温泉の開湯にも宇治長者が関わっているとする伝承もある。あくまでも伝承だが、温泉の開湯は9世紀中頃とされているが、鎌倉末期から室町期にかけての戦乱で一度廃れた。江戸時代になって鳥取藩によって再興され、街道の宿場町・温泉町として客が集まるようになって栄えた。明治に入ると岩井宿が設置されて役場ができ、これが母体となって岩井村、さらに周辺の村を集めて岩井町となった。 明治末期に山陰本線が通ることになり、岩井村と海側の浦富村とで誘致合戦を繰り広げた結果、鉄道は両者の中間を通ることになった。駅名をめぐっても両村の綱引きの決着がつかず、桂太郎総理大臣によって「岩美」駅と命名された。「岩美」は、岩井村などが属していた「岩井郡」と隣接の「法美郡」を1896(明治29)年に合併させたときに作られた郡名からきている。岩美駅は岩井町・浦富町の各中心地のどちらからも離れていたが、やがて駅前に居住地が発展し、1954(昭和29)年に両町などが合併して岩美町ができたときに、役場も岩美駅近くに設けられた。
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