街道の宿場として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:28 UTC 版)
江戸期、長崎街道における公用の貨客輸送に用いる札馬(駄賃馬)を置く「馬次所(馬継所)」、および飛脚の運ぶ公的書類などを宿場で引き継いだ記録を書き残す「問屋場」が、佐賀城下の街道沿いに東西1か所づつ計2か所置かれていた(馬次所と問屋場は同じ場所にあった)。西の1か所は長瀬町に、東の1か所は呉服町にあった。1759年(宝暦9年)の記録『御領中郡村附』には馬次所が、伊能忠敬の『測量日記』内1812年(文化9年)旧9月の記述には問屋場が、それぞれ呉服町にあったことが記されている。 しかし、1800年(寛政12年)長崎奉行の泊まる宿として呉服町に「本陣」が設けられると、旅行者が集まる馬次所や問屋場が本陣と同じ町にあると警備の都合が悪いことから、馬次所・問屋場は隣の元町に移された。1854年(嘉永7年)の『呉服町・元町竈帳』では元町に所在したことが記されている。 なお、1637年(嘉永14年)頃、馬は東西各30頭づつ計60頭配置されていた。のち1772年(明和9年)までに、馬の数は計100頭に増やされている。1783年(天明3年)頃には、本馬(=荷物1駄分・目方40貫まで)1頭1里につき24文、人足1人(5貫目まで)につき12文であったが、交通量が増えて煩雑になったため、幕府に増額を願い出て働きかけを続けた結果、同年10月に24→41文、12→21文への増額(中山道並み)が認められ、幕末まで続いたという。
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