葱華輦の輿丁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 08:14 UTC 版)
猪瀬直樹の『天皇の影法師』で紹介されて以来、歴代天皇の棺を担ぐ者として有名になったが、実際には後醍醐天皇以降の全ての天皇の棺を担いだわけではなく、特に近世においては長く断絶した期間もあった。明治元年10月13日、明治天皇が初めて江戸に行幸した際に八瀬童子約100名が参列した。10名ばかりは東京に残り仕事をした。後から参加した植田増治郎という老人を猪瀬はインタビューしているが、駕籠を担ぐことだけでなく、風呂を沸かす仕事と天皇の厠の処理という仕事があった。八瀬村に課せられた地租税は宮内省が払った。明治天皇の母親である英照皇太后の葬儀の時は74名が東上、青山御所から青山坂の停留所、汽車に乗り京都駅から大宮御所まで葬送に参加した。 大正元年(1912年)、明治天皇の葬送にあたり、喪宮から葬礼場まで棺を陸海軍いずれの儀仗兵によって担がせるかをめぐって紛糾し、その調停案として八瀬童子を葱華輦(天皇の棺を載せた輿)の輿丁とする慣習が復活した。明治天皇の際には東京と京都、、大正天皇の際には(1926年)東京、、なお、昭憲皇太后(1914年)の場合は東京と京都で葬儀に参加した。明治維新後には地租免除の特権は失われていたが、毎年地租相当額の恩賜金を支給することで旧例にならった。この例は大正天皇の葬送にあたっても踏襲された。 平成元年(1989年)、昭和天皇の葬送では棺は自動車(轜車)によって運ばれることとなり、葱華輦は式場内の移送にのみ用いられることとなった。八瀬童子会は旧例の通り八瀬童子に輿丁を任せるよう宮内庁に要請したが警備上の理由から却下され、輿丁には50名の皇宮護衛官が古式の装束を着てあたった。八瀬童子会からは6名の代表者がオブザーバーとして付従した。
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