芸能プロモーターとして
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卒業後、文化放送でのアルバイトを経て1957年、スウィング・ウエストを結成しリーダーとなる。1960年退団後東洋企画を設立し専務に就任するも内紛で追放され、同年に有限会社堀プロダクションを設立し、代表取締役に就任する傍ら営業・制作マネジャーを兼任する。1963年、株式会社ホリプロダクションに社名変更し株式会社化。1984年には同社代表取締役会長に就任。1990年、株式会社ホリプロに社名変更した。 芸能界の一般企業化を進めた先駆者でもある。きっかけは息子の一貴の小学校受験にて、面接で親の職業について答えた際の面接官の妙な反応だった。この出来事をきっかけに「芸能界をヤクザな虚業でなく一般企業として社会に認めさせたい。その為には株式を店頭公開して経営の透明度を上げるしかない」という目標の下経営の健全化を進め、1989年に業界初の株式公開を果たし、1997年には東証2部上場、2002年9月には東証1部上場を果たし、更には日本経団連の加入も成し遂げた。 また1981年から繰り返し上演されている「ピーターパン」の上演を発案した。当初は「ピーターパン」のみの製作にとどまっていたが、舞台作品の製作を広く手がけるようになった。 2002年、会長職を退任し、取締役ファウンダーに就任。2003年、大英帝国勲章(CBE=三等勲章)を授与される。2008年には義貴の会長兼任と同時にファウンダー最高顧問となり取締役から退いた。 2014年、一般財団法人ホリプロ文化芸能財団を創設。 2020年6月の株主総会で退任が決定した。 勝利の法則として「いい顔つくろう」を教訓としホリプロ本社の玄関ロビーに設置してある姿見(鏡)に記してある。また「いつだって青春」 を大切にしている言葉として挙げている。 自宅で沢庵を漬けるほどの沢庵好きで、重石として三船敏郎と梶芽衣子からもらった石臼を使用している。 宇都宮ケーブルテレビ取締役。宇都宮ビジネス電子専門学校(UBDC)と姉妹校の宇都宮アート&スポーツ専門学校の名誉顧問。 2021年2月、日本経済新聞朝刊に「私の履歴書」を「ホリプロ創業者」の肩書で執筆する。同年秋に文化功労者に選出された。
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