芸能の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/13 03:02 UTC 版)
「スナリー・ラチャシマ」の記事における「芸能の背景」の解説
一家の生計の一助とするため、縫製工場で働きながら地方の歌謡コンテストに応募していたが、それも1つや2つではなく小さなコンテストだろうと頻繁に参加した。やがてプラチュワップ・チャンパートーン氏(ประจวบ จำปาทอง デパートのオーナー)主催のコンテストに応募したとき、初めて「スナリー・ラチャシマ」を名乗った。スナリーは、この親友の名前が好きでたまらなかったので非常に愛着があるという。 多くのコンテストがそうであるように、スナリーが応募した大会も地方予選で始まり、それに勝つと全国大会に進むことになる。全国大会に出場が決まると「実家の脛齧りの穀潰し」になるとスナリーは語った。全国大会に出ることになると、その間収入が途絶えるばかりか移動費や食費が嵩むからだった。 全国大会の本選に進んだものの、結果は彼女の希望に反して準優勝だったので、スナリーは非常に落胆した。しかし彼女の歌はセムスック放送のラジオ司会者など、玄人の耳を惹きつけ魅了し、彼らは挙ってスナリーにレコーディングを薦めた。そこでチャートリー・シーチョン(ชาตรี ศรีชล)とセンスック・デーンダムヌアン(แสนสุข แดนดำเนิน)という2人の歌手と共にバンドを組んだ。 タプティム・ニヨムトーン(ทับทิม นิยมทอง)という芸名を与えられ、「さようならコラート(ลาโคราช)」と「コラートに帰る(กลับโคราช)」の2曲を録音したが当時はヒットせず、スナリーは失意の日々を送ることになる。 しかし、多くの人の励ましもあり、ピュア・オーディオ(ชัวร์ออดิโอ)社と契約を結び、芸名をスナリー・ラチャシマに戻す。その頃の流行だったテンポの速い曲よりも、スナリーにはスローな曲が似合うと考えたレーベルの判断で、ことさら「スローテンポ」を宣伝した。この戦略が功を奏して、スナリーの名はタイ国内で爆発的に知れ渡ることになった。歌手としてはポーンシリ・ワラヌット(ผ่องศรี วรนุช)や、プムプワン・ドゥワンチャン(พุ่มพวง ดวงจันทร์)に次ぐ知名度といえる。 ともあれスナリーの人気は、テレビ放送がメディアに参入したことが大きな影響を与えた。彼女は、飛び抜けた美貌やスタイルの良さを持ち合わせていた訳ではなかったので、そういったアピールは一切せずにレコードやテープの売り上げを伸ばすために、歌の巧さをアピールした。歌のスタイルはポーンシリ・ワラヌットのような昔ながらのボーカリストではなく新しいスタイルだったので、それが新時代のメディアにマッチしたということが言える。また、マイクの使い方に現れるように当時の最新技術に対応した歌唱だったのも良かった。 作曲家チョンラティー・タントーン(ชลธี ธารทอง)著「音楽の天使(เทวดาเพลง)」によると、スナリーは才能に恵まれた娘であると言う。しかし残念な事には代々の貧困とコネクションの無さのため、しなくてもいい苦労を強いられ、歌手として売り出すにも様々なコンクールを手当たり次第に受けなくてはならなかった。コラートのコンクールで勝ち抜き、バンコクに出てきてからもなお、バンコクのラムイントラkm8通りにあるセンニット市場の場末のコンクールに出場した。もちろん優勝したのだが、この優勝で参加資格を得たのがテレビのチャンネル7の番組「黄金の歌声への道(ชุมทางเสียงทอง)」という勝ち抜き歌番組だった。順調に勝ち進んで、結果は準優勝だったがその内実は15人いる審査員のうち7人がスナリーを推すという接戦だったので、優勝者と準優勝者の2人に歌のレッスンをつけることになった。 結局レッスンが終わり、デビューしたのは準優勝者のスナリーだったが、歌のヒットを出すまでは生活に困窮し、水道や電力を止められたこともあったという。タイの女性としては背も手足も大きく(当時のタイでは美しい女性の条件ではなかった)、顔も取り立てて美人ではなかったスナリーは自分の歌声だけを武器にスターダムを駆け上がり、最高のアーティストとなり、こんにち彼女を知らない者はいない。
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