舞夢
行政入力情報
|
舞夢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/06 13:20 UTC 版)
舞夢 | |
---|---|
監督 | 河森正治 |
脚本 | 河森正治 大野木寛 |
原作 | 矢立肇 河森正治 |
製作 | 植田益朗 長崎行男 |
製作総指揮 | 丸山茂雄 伊藤正典 |
撮影 | 奥井敦 |
制作会社 | エピックソニーレコード サンライズ |
公開 | 中止(予定:1990年) |
製作国 | ![]() |
言語 | 日本語 |
『舞夢』(マイム)は、1990年(平成2年)に公開が予定されていた、日本のアニメーション映画[1][2]。監督は河森正治。制作はサンライズとエピックソニーレコード(現・エピックレコードジャパン)[3]。紀州熊野の山奥から自転車で東京へ出てきた少女、葛城舞夢の冒険を描く作品だったが、正式な制作発表前に中止となった[4]。
経緯
企画開始まで
1985年(昭和60年)、河森正治はアニメーション映画『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』で監督デビューを果たした。しかし監督となった経緯は、元々の役割は設定監修であったのが、映画作りにのめり込んで監督になってしまったというもので[5]、『マクロス』の作品を2年続けてのちは、ひとまずやりたいことは全てやってしまったという状態であったという[6]。
また河森には、「企画や原案段階から自分でやったものでないと、やれるという気がしない」というこだわりがあったことから、再度監督を務める際にはオリジナル作品であることを前提としていたが、企画はなかなか通らなかった。『マクロス』の続編の話は何度もあったが、「1度やったことは2度とやりたくない」という思いから、そちらは全て断っていた[6]。
このようにして、新作品のアイデアに行き詰まっていた河森が『舞夢』の制作を思いついたのは、ある日、道端でパンクした自転車の修理をしている少女を見かけ、声をかけたときのことであったという。河森が自転車好きだとわかると、少女は堰を切ったように多くのことを話し始め、自分は中学3年生の15歳で、紀州熊野の実家を家出同然で飛び出し、自転車を走らせて一人で東京まで出てきたのだと話した[7]。少女が去っていった後、河森は「いまどき、こんなコもいるのか……。いけるな、こりゃ、けっこういけるな。よし、このコでいっちょ映画をつくるか!」と思い立ったとしている[8]。
河森は2013年の著作において「『舞夢』というタイトルの通り、イマジネーション能力が空間や物質を動かすみたいなコンセプト」「その能力を持った男の子と便利屋の少女が出会って、冒険する物語」と内容を説明している[9]。
企画開始
ようやくにして『舞夢』の企画が通ったため[6]、企画は『超時空要塞マクロス 愛・おぼえていますか』以来5年ぶりに、河森と美樹本晴彦のコンビによるアニメーション映画として動き始めた[10]。1989年(平成元年)5月号の徳間書店『アニメージュ』では、「葛城舞夢で "世界" を変える 河森正治 美樹本晴彦 舞夢宣言」と題し、舞夢の表紙イラスト+巻頭カラーページ大特集で『舞夢』の情報が初公開され、パイロットフィルムのスチールも掲載された。
『舞夢』は、サンライズとエピックソニーレコード(現・エピックレコードジャパン)の提携作品として企画が進められた[3]。実現すれば、エピックソニーが初めて制作を行うアニメーション映画となる予定だった[注 1]。常務の丸山茂雄は、音楽を重視した映画として、サンライズが企画を持ってきたとしている[11]。参加するアーティストは中堅どころを起用して、当該アーティストの世間一般への認知を図るほか、全アーティストを一堂に会させた『舞夢』コンサートなどを計画していることを丸山は明かしていた[12]。
企画中止
パイロットフィルムを制作したのち、サンライズのスタジオで本編の制作準備に入り、アニメージュ誌上の「舞夢Studio file」という連載コーナーで設定や制作状況が報告された。ラストシーン以外の絵コンテはほぼ出来上がり、作画作業にも入り、途中まで進行していた[9]。にも関わらず、演出上の行き詰まりにより、1989年(平成元年)10月はじめに制作中断が決定[13]。正式な製作発表も行わないまま、制作中止という事態に陥ってしまった。
当時の河森はオリジナリティに強くこだわり、他人とアイデアが似ることを嫌っていたが、1989年夏に公開された『魔女の宅急便』(宮崎駿監督作)と『機動警察パトレイバー the Movie』(押井守監督作)に『舞夢』とよく似たシーンがいくつもあることにショックを受けた[4]。
河森 『マクロス』が終わってから、何本も企画をやったし、実際シナリオまで行ったり、コンテまで行ったものが、多数あるんだけど、全部何かに似ていることに気がついて、どうしても作れなくなってしまうみたいなね。
、「この人に話を聞きたい 第三十二回 河森正治」[14]
ー 『舞夢』という企画がありましたけど、あれも『魔女の宅急便』に似ていたとか。
河森 そう。似せたわけでもないのに、似て見えるところが多かったんだよね。
ー 作っている最中に、『魔女の宅急便』を観て制作を中断したと聞いていますが。
河森 それだけが理由ではないけれど、その後で公開されても、類似品に見られると思ったのは事実だよね。それから、これも偶然なんだけど、ラストシーンでは13号埋立地のゴミ処理場で、鳥がいっぱい飛ぶはずだったんだ。
ー そりゃマズイですね。『舞夢』を作っている間に、劇場版『機動警察パトレイバー』が。
河森 そう。そのデザインに参加することになって、コンテを見たら、まるでそっくりのシーンがあって、これじゃあ、真似したように見えるんじゃないか。そういったことがたくさん重なって、ちょっとノイローゼ気味に考えちゃった事があるよね。本物のオリジナリティと、そうじゃないものって、何か違いがあるんじゃないかみたいな。 — 河森正治(聞き手:小黒祐一郎)
また、2013年の河森の著作では「『舞夢』の舞台となる川やシチュエーションが、企画段階の『機動警察パトレイバー2 the Movie』と被り過ぎていることが分かった[9]。ラストは夢の島の埋め立て地という設定まで一緒だったため、半年か1年ぐらい遅れて公開されるとなると、もう駄目だと思って絵コンテが描けなくなってしまった[9]」という趣旨で語られている。
のちの1994年(平成6年)に河森は『舞夢』について、「元気な女の子を主人公にしたものをやっておきたかった。いま思うとタイムリーでしたね(笑)。素直に作ればよかったのに、他人の手法は使いたくないとか言って、違うことをやろうとして、どうどう巡りになってしまった」と振り返っている[4]。美樹本は「腹がたったのは河森君が、失敗作とわかっているのに、他人を巻きこめないといったことです。作品を流される方がよっぽど迷惑ですよ」とのちに語っている[4]。
その後
『舞夢』の企画中止は、河森にとって大きな挫折となった。3ヶ月ほどは殆ど、部屋から外へ出ることのできない状態であったという。しかし、1990年(平成2年)末からメカデザインの仕事を再開。1991年(平成3年)に結婚したことが転機ともなり、1994年(平成6年)には監督業に復帰した[4]。
河森はOVA『マクロスプラス』を制作するにあたり、『舞夢』に設定制作として参加していた渡辺信一郎に声をかけ、「『舞夢』で皆に迷惑をかけたし、当分監督をやるつもりはない」「話は考えるから、監督をやってほしい」と頼んだ[15]。渡辺は「共同監督として手伝いますから、河森さんが監督をやってください」と返事し、河森が総監督、渡辺が監督というポジションで制作することになった[15]。
河森はサンライズのプロデューサーだった植田益朗や、アシスタントプロデューサーだった南雅彦に多大な迷惑をかけたので、その後は頼まれた仕事は何でも受けると心に決めている[9]。OVA『機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY』はその流れで参加したもので、『機動武闘伝Gガンダム』も企画段階(「ポルカガンダム」)の頃に参加していた[9]。その後も『天空のエスカフローネ』『カウボーイビバップ』『交響詩篇エウレカセブン』などの南プロデュース作品でも一緒に仕事している。
あらすじ
15歳の少女舞夢は、紀州熊野の実家を家出同然で飛び出し、東京へとやってきた。便利屋として働く舞夢は、アパートの隣室の住人、タケシの様子がおかしいことに気付く。それがきっかけとなり、舞夢は伝説の秘宝を探す、壮大な冒険を始めることとなる[3]。
登場人物
- 葛城 舞夢(かつらぎ まいむ)
- 15歳の少女[3]。紀州熊野の十津川峡出身。実家は町までバスで小1時間はかかる、山あいの小さな集落にある。先祖は熊野の山を護る、山伏のような存在であったらしい[16]。普段着は「ヨレヨレのGジャンに、自分でGパンを切って作ったパンツ、それにハイソックスとスニーカー」。Gジャンの下はTシャツで、胸には「FLY」の「F」が書かれている。また、ウサギの髪留めを付けている[17]。河森は舞夢について「好奇心旺盛で、行動力があって、それでいて、一時代前の女性のような部分も持ち合わせている女の子」としている[18]。また2013年(平成25年)の書籍では、『舞夢』を「インスピレーションを実現化できる少女、舞夢の物語」であったとしている[19]。
- 富良野 毅(ふらの たけし)[20]
- 舞夢が住むアパートの隣室の住人。常に自室でゲームにいそしんでいる、「超ネクラなゲーム少年」[21]。河森はインタビューで、実はタケシには「地球人とは異質の高度な文明を持つ、異次元人の "精神体"」が憑りついており、この異次元人が秘宝探しのため、タケシの肉体を利用しているという設定であることを明かしている[3]。
- 加納 直哉(かのう なおや)[20]
- 「相当なプレイボーイ」らしいカメラマン。舞夢が便利屋の仕事で、よく部屋の片付けやアシスタントを務めている[21]。舞夢やタケシの行動を注視し、追い掛け回すこととなる。「舞夢は、どうやらこの加納に憧れているらしいとの情報も」とも解説されている[3]。
スタッフ
- 製作 - CBSソニーグループエピックソニーレコード、サンライズ
- エグゼクティブ・プロデューサー - 丸山茂雄、伊藤正典
- 原作 - 矢立肇、河森正治
- 監督 - 河森正治
- 脚本 - 河森正治、大野木寛
- キャラクター・デザイン、作画監督 - 美樹本晴彦
- 美術監督 - 金子英俊
- 撮影監督 - 奥井敦
- チーフ・アニメーター - 稲野義信
- メカニカル・デザイン - 明貴美加、石津泰志
- プロデューサー - 植田益朗、長崎行男
(出典:[3])
脚注
注釈
出典
- ^ アニメージュ 1989f, p. 119.
- ^ アニメージュ 1989d, p. 109.
- ^ a b c d e f g アニメージュ 1989f, p. 51.
- ^ a b c d e アニメージュ 1994, p. 6.
- ^ アニメージュ 1994, p. 4.
- ^ a b c アニメージュ 1994, p. 5.
- ^ アニメージュ 1989b, p. 18.
- ^ アニメージュ 1989b, p. 21.
- ^ a b c d e f 河森 2013, p. 145.
- ^ アニメージュ 1989a, p. 19.
- ^ a b アニメージュ 1989g, p. 42.
- ^ アニメージュ 1989g, p. 43.
- ^ 「'90年版アニメ白書(1)」『アニメージュ1990年2月号』、p72。
- ^ 『アニメージュ2001年6月号』、徳間書店、pp164-165。
- ^ a b 小黒祐一郎「この人に話を聞きたい 第百二回 渡辺信一郎」『アニメージュ2007年10月号』
- ^ アニメージュ 1989g, p. 44.
- ^ アニメージュ 1989f, p. 120.
- ^ アニメージュ 1989b, p. 25.
- ^ 河森 2013, p. 282.
- ^ a b 「舞夢Studio file 2 11月10日発信」『アニメージュ』1989年11月号、徳間書店、97頁。
- ^ a b アニメージュ 1989f, p. 50.
参考文献
- 「「舞夢」 日本に隠されているという世界を変える秘宝を求めて」『アニメージュ』第130号、徳間書店、1989年4月、18-19頁。
- 「葛城舞夢で "世界" を変える 河森正治 美樹本晴彦 舞夢宣言」『アニメージュ』第131号、徳間書店、1989年5月、18-26頁。
- 「かつて "少女の歌" に世界が震えた 「マクロス」から「舞夢」へ 河森正治 美樹本晴彦が語る「マクロス」のころ」『アニメージュ』第132号、徳間書店、1989年6月、42-48頁。
- 「自転車は舞夢の "元気" 舞夢」『アニメージュ』第133号、徳間書店、1989年7月、108-109頁。
- 「設定資料見聞録 第7回 「舞夢」」『アニメージュ』第134号、徳間書店、1989年8月、108-109頁。
- 「新連載 舞夢情報がぎっしりつまった舞夢Studio file0」『アニメージュ』第135号、徳間書店、1989年9月、50-51頁。
- 「舞夢スタジオ 丸山茂雄常務が語るEPIC・ソニーの「舞夢」戦略」『アニメージュ』第136号、徳間書店、1989年10月、42-45頁。
- 「「マクロス7」放映記念立体特集1 河森正治と美樹本晴彦 ――"MACROSS" から "MACROSS" へ、ふたりの10年の軌跡――」『アニメージュ』第198号、徳間書店、1994年12月、1-10頁。
- 河森 正治「(未)1980年代 舞夢」『ビジョンクリエイターの視点』キネマ旬報社、2013年1月29日、282頁。
- >> 「舞夢」を含む用語の索引
- 舞夢のページへのリンク