自然状態と社会契約説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 19:11 UTC 版)
(目の前の)社会状態・社会規範と対比させるために、本来的な自然状態を持ち出すという発想は、洋の東西を問わず、古代からある発想であり、例えば古代中国であれば、(孔子の「礼儀 (作為)」に対する)老子の「無為自然」が知られている。 西洋では、古代ギリシャにおいて、自然(ピュシス)と社会法習(ノモス)を対比させる議論が流行し、それによって社会規範や慣習の不自然さ・欺瞞性が主張されたり、「弱肉強食」「強者の論理」「優秀者(有能者)支配」を正当化する主張がなされたりもした。プラトンも、『ゴルギアス』におけるカリクレス、『国家』第1巻におけるトラシュマコス、『法律』第1巻におけるクレイニアス等を通して、そうした議論・主張に言及しつつ、それに対して反論 (再解釈/再構築/置換) する形で、「あるべき理知的かつ神的な、善なる自然の法(自然法・善のイデア)を見極め、国民を善導していける(真の意味での)有能者(哲学者兼実務者、哲人王・夜の会議)による国家統治」を説いている。 またプラトンは、『国家』第2巻 (11章-14章) における「最小限国家と贅沢国家」の議論、『政治家』(15章) における神話、『法律』第3巻における「大洪水後の人類」の議論などを通して、高度な知識・技術・集住・都市化・商業化・国制・立法・戦争などが成立・発生する以前の、素朴で調和的な人間社会のあり方について言及し、それを国家・法律についての議論の出発点としており、近代における自然状態観に大きな影響を与えている。 近代における自然状態の発想は、17~18世紀の西ヨーロッパにおいて、社会契約説を成り立たせるための理論的仮想として、そうした古代ギリシャの発想を、政治哲学者達が再興したものである。代表的な論者にトマス・ホッブズ、ジョン・ロック、ジャン=ジャック・ルソー等がある。社会契約説は今ある政治体が人民を支配する根拠付けとして、人民自らが契約して政治体を作ったからとするもので、必ずしも政治体の発生史を正確に跡付けている保証はないが、政治体の存在を当たり前のこととせず、人民が省察して良いのだと転換したことに大きな意義がある。この社会契約説が当代または後代、ヨーロッパの市民革命の理論的基礎となったのである。 自然状態をどう見るかによって次節のように以後の議論が分かれるが、いずれも自然状態を、それだけで完全に自足的かつ持続可能な状態とは考え得ないことで共通している。であればこそ、わざわざ無限の自由を捨てて、人間は社会契約を結び、政治に縛られる社会状態へと入るという選択を余儀なくされるのである。 政治体の存在根拠を求めて自然状態論に行き着いた彼らは、思想史的に考えれば、当時猛威を振るっていた「王権神授説」に対抗するために、極めて慎重な議論の歩みを進めたと評価できる。王権神授説が聖書を根拠にする以上、それを凌駕する緻密さが必要とされたのである。
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