肉筆画へ転向とは? わかりやすく解説

肉筆画へ転向

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 07:17 UTC 版)

鳥文斎栄之」の記事における「肉筆画へ転向」の解説

栄之寛政10年1798年)頃には錦絵一枚絵制作止める江戸期記録には「故在りてしばらく筆を止む」「故障ありて錦絵を止む」などの記述見られ版画作品発表取りやめざるを得ない事情があったことが想定できる享和1801年 - 1804年)・文化1804年 - 1818年期にかけてはもっぱら肉筆美人風俗画を手がけており、気品のある清雅画風人気得た江戸時代は、木版画下絵手懸ける者「画工」より、肉筆画専門の「本絵師」のほうが格上見られており、栄之転身彼の出自と、当時身分意識影響していたとみられる寛政12年1800年)閏4月妙法院宮真仁法親王門跡)が江戸下向した折、将軍栄之命じて評判隅田川の図(おそらくは肉筆による絵巻物)を描かせるということがあった。京に帰った妙法院宮は、それを絵を好んだ後桜町上皇江戸土産としたところ、上皇は殊のほかお喜びになり、ついには仙洞御文庫納められたという。これを伝え聞き名誉に感じた栄之は、「天覧」と刻んだ印章作り記念としたのであった。ついに浮世絵が帝の叡覧供せられるという誉れ浴した瞬間であった評判となったこの一事によって栄之画名高めとともに以降自作対し大い矜持抱いたといわれる。さらにこのことが当時広く知られるようになったため、隅田川描いたそれと同趣向の作品揮毫各方面から次々と求められたとみられ、同様の吉原通図巻」がおよそ21点ほど確認されている。 その後栄之没年まで優れた肉筆画描いており、学んだ絵の骨格しっかりしているので晩年肉筆画にも佳作多く、ただ美人画のみではなく風景画にも優れた作品残されており、特に隅田川風景好んで描いている。ただし、絹本作例には同じ下絵使い回し同工異曲作品多く弟子たち動員して工房的な量産体制があったことが類推できる。その一方で極めて稀だ肉筆画落款に、「治部卿栄之藤原時富筆」と位や肩書きをつけて署名することがあり、これらは名だたる大名からの需めに応じて描いたのである思われる。「遊女立姿図」(東京国立博物館所蔵)や「美人図」(大和文華館所蔵)などに「治部卿栄之藤原時富筆」という落款がされている。 後に栄里栄昌栄深栄水栄文栄鱗栄晁栄綾栄京栄意栄雅栄舟栄隆栄波栄山、栄尚、蕉鹿五郷など多く優秀な門人輩出している。文政12年1829年)、74歳死去した墓所台東区谷中蓮華寺。既に合祀墓移されていて墓石存在しない法名は広説院殿皆信栄之日随居士

※この「肉筆画へ転向」の解説は、「鳥文斎栄之」の解説の一部です。
「肉筆画へ転向」を含む「鳥文斎栄之」の記事については、「鳥文斎栄之」の概要を参照ください。

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