肉刑を巡る論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/15 05:58 UTC 版)
前漢の紀元前167年に名医として知られていた淳于意の事件をきっかけに、残虐な刑罰であるとして肉刑は廃止された。これによって従来肉刑とされていた刑罰がそれよりも重い死刑と軽い徒刑(懲役刑)に振り分けられたが、死刑と徒刑の間には大きな格差がある(中間刑が存在しないために却って死刑の適用範囲が広がった)ことが問題視され、班固(『漢書』刑法志)のように肉刑復活論を唱える者もいた。 後漢の献帝の時代(建安初期)、当時司空であった曹操は肉刑復活を計画して尚書令の荀彧に命じて群臣の意見を求めさせた。この際、孔融が強く反対をしたために断念した。魏の建国後、曹操および継いだ曹丕・曹叡は肉刑復活を試みて度々肉刑に関する議論を行わせ、特に太和年間の論争は一大論争となった。一連の論争では、陳羣・鍾繇らが賛成論を唱えたが、そのたびに王修・王朗などが反対論を唱えたために挫折した。その後、夏侯玄が李勝の肉刑復活論を批判したり、西晋の劉頌がたびたび司馬炎に肉刑復活を上奏して却下されている。東晋の司馬睿の時代である大興年間に衛展の上奏をきっかけに再び大論争となり、王導・庾亮らが賛成論を、周顗・桓彝らが反対論を唱えたが王敦の「(肉刑の復活は)天下に惨酷の風評を広め、逆賊(敵国)を利する」との上奏によって打ち切られ、403年にも当時の実力者桓玄が肉刑復活を計画するが、反対論が強く失敗に終わった(『晋書』刑法志・『通典』刑典など)。また、東晋の葛洪(『抱朴子』外篇・用刑)・袁宏(『三国志』鍾繇伝裴松之注)も肉刑復活論者であった。 賛成派は肉刑を廃止したことで死刑が増加したためにより悲惨なことになっている(陳羣・劉頌・王導ら)、肉刑による犯罪手段の除去を目的とする一種の特別予防主義的観点(李勝・劉頌ら)、肉刑による人々への威嚇効果を目的とする一種の一般予防主義的観点(陳羣・李勝・曹志・劉頌・王導・葛洪)などの観点から論じた。これに対して反対派は「肉刑を受けた者は却って絶望して新たな犯罪に走る」(孔融)、「民生の安定と教化によって罪人を悔悛させ、悔悛の余地の無い者のみを死刑にすべき」(夏侯玄)のような主張もあったが、多くの者は残虐な刑罰であるとともに「時期尚早」を理由としたものであり、その中には肉刑復活論者や斬右趾の復活のみを許容する限定的な肉刑復活論者も含まれていた。魏・晋ともに天下を統一しておらず、敵国(蜀・呉・五胡十六国・北朝など)に悪評が広まったり、恐怖を感じた住民が敵国に逃亡することは自国に致命的打撃を与える可能性があり、法観念的には肉刑復活に賛成する人々の間でも内外の敵につけいれられて政権を存亡の危機に陥れてまで復活させることには異論が多かったと考えられている。 その後、北魏において中間刑として流刑が導入されたことによって議論は低調になるが、それでも梁において短期間ながら肉刑が復活(『梁書』武帝紀・天監14年正月辛亥条)したり、唐の太宗(『資治通鑑』唐紀貞観元年冬条)や北宋の神宗(『続資治通鑑長編』熙寧3年8月戊寅条)の時代に肉刑復活が議題に上がったことがある。
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