考古資料による考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/12 03:10 UTC 版)
毛野地域(群馬県・栃木県南西部)には古墳時代に多くの古墳が築かれたが、下毛野地域においては5世紀末から6世紀に小山市北部において最大規模の摩利支天塚古墳(墳丘長121メートル)と琵琶塚古墳(123メートル)が築かれた。 代わってやや北方の壬生町南部に、両古墳とは性格の異なる「下野型古墳」と呼ばれる独特の前方後円墳群が築かれた。これら下野型古墳が下毛野氏一族の墓と解されている。また、古墳群は山王塚古墳(6世紀末から7世紀初頭)まで続いたのち、円墳に変化することから、この頃にヤマト王権の東国支配が完了し下毛野氏一族は中央に居を移したと指摘される。 古墳群北東の下野薬師寺は下毛野古麻呂による氏寺としての建立と伝わることからも、当地と下毛野氏の関係の深さがうかがわれる。また、古墳群付近には下野国庁や下野国分寺・国分尼寺も建立されており、一帯はのちの下野国においても中心地であった。
※この「考古資料による考証」の解説は、「下毛野氏」の解説の一部です。
「考古資料による考証」を含む「下毛野氏」の記事については、「下毛野氏」の概要を参照ください。
考古資料による考証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 03:20 UTC 版)
毛野地域(群馬県・栃木県南西部)は、古墳時代に多くの古墳が築かれたことが知られる。特に上毛野地域(群馬県)においては、東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、全長210mで全国26位)を始めとして、全長が80mを越す大型古墳が45基、総数では約1万3000基もの古墳が築かれている。 4世紀初頭には前方後方墳が築かれ、同地方由来の土器が使用されていた。4世紀中葉以降は前方後円墳に移行し、畿内の石工による石棺の築造も認められる。これらから毛野では首長連合政権が形成されたと見られ、少なくとも5世紀前半以降には畿内の豪族と同盟にあり、ヤマト政権内部で極めて重要な位置を占めたと考える説がある。5世紀中頃には東日本最大の太田天神山古墳が築かれ、一帯で最大規模を誇っていた。この太田天神山古墳(群馬県太田市)やお富士山古墳(群馬県伊勢崎市)には、ヤマト王権の王陵に見られる長持形石棺が使用されている(詳しくは「毛野」を参照)。また安本美典は太田天神山古墳と同時期の築造で、毛野と遠く離れた吉備地方の造山古墳が殆ど正確に相似形であると指摘しており、宝賀寿男は吉備氏族と毛野氏族が同族で両古墳は共に応神朝に活動した族長の墓であるとする説を唱えている。 後世の上毛野氏の東国六腹朝臣における盟主的立場から上毛野氏と毛野政権との関係が指摘されるが、この当時にいた豪族の詳細は明らかではない。 6世紀後半からは、地域内の各地に大型古墳の林立が顕著となる。これら各地に豪族が割拠していたと見られ、上毛野氏の本拠地としては『続日本紀』の「上野国勢多郡小領」の文言や赤城信仰の中核である赤城神社の存在を基として「赤城山南麓」と見るのが定説とされ、その地にある大室古墳群(群馬県前橋市)が注目されている。 一方、7世紀に入っても大型の方墳が築かれ続けた総社古墳群(群馬県前橋市)に本拠地を求める説もある。この地には山王廃寺(放光寺)があり関係性が指摘されるほか、後世には上野国府が設置されることとなる。
※この「考古資料による考証」の解説は、「上毛野氏」の解説の一部です。
「考古資料による考証」を含む「上毛野氏」の記事については、「上毛野氏」の概要を参照ください。
- 考古資料による考証のページへのリンク