老練弁護士として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/20 04:57 UTC 版)
弁護士としては、追放解除直後の1952年(昭和27年)4月から1954年(昭和29年)3月にかけて、推されて静岡県弁護士会会長を2期務めた。1960年(昭和35年)にも弁護士会会長を務め、この時には15年ほど後に予定されていた静岡地裁本庁舎の改築を、懇意の政治家である西村直己を通じて大蔵省と折衝を行うことで、その時点での改築予算の追加計上を認めさせた。同時期には最高裁の定員増員用の予算を事務総局から依頼され、これもある政治家を通じて、大蔵省から10人分の追加予算を獲得した。1961年(昭和36年)には日本弁護士連合会副会長となり、1972年(昭和47年)に関東弁護士会連合会理事長に就任した際には、その会費増額を断行し、設立以来の脆弱な財政基盤を刷新した(このような財政諸問題について鈴木は、所得倍増計画や高度経済成長の過程で法曹界への予算配分が軽視され続けた結果、司法の機能不全を招いた、として自民党の路線を批判することもいとわなかった)。 その後も鈴木は刑事弁護士としてキャリアを重ね、なかでも清水局事件を始めとして、自身が冤罪と確信した事件はすべて無罪を勝ち取ってきたという。1954年3月に発生した島田事件についても、事件発生直後から被告人の死刑確定と度重なる再審請求まで主任弁護人として活動し、死の直前までの後半生をその冤罪証明に捧げた。通例、鈴木は自身の政治力を個々の事件に行使しようとはしなかったが、島田事件に限っては、法務大臣が交代するたびに伝手を頼んで面会へ赴き、死刑囚の処刑を行わないよう要請を続けた。再審開始要件の緩和のために、「再審特例法案」の実現を求めて社会党の神近市子とも手を結び、思想的に接点のない自由法曹団とも連携した。保守派の重鎮であった鈴木が自由法曹団と共闘したことは、再審問題は一部の左翼弁護士が騒いでいるだけというイメージを払拭するのに役立ったという。 しかし、島田事件の4度目の再審請求が棄却され、東京高裁へ即時抗告中であった1979年(昭和54年)3月、肝硬変で倒れた鈴木は静岡済生会総合病院へ入院した。そして、回復することなく同年6月15日に急逝した。山本敬三郎知事を葬儀委員長として、県弁護士会、静岡県民放送、自民党県連など15団体での合同による葬儀が営まれ、鈴木は生まれ故郷の農村に葬られた。 鈴木の死から10年、そして事件発生から35年近くが経過した1989年(平成元年)1月30日、静岡地裁は島田事件再審公判において被告人に無罪判決を言い渡した。判決後のインタビューでの「今、一番したいことは」との質問に、元被告人は「亡くなった鈴木信雄先生の墓参りに行きたい」と答えている。
※この「老練弁護士として」の解説は、「鈴木信雄」の解説の一部です。
「老練弁護士として」を含む「鈴木信雄」の記事については、「鈴木信雄」の概要を参照ください。
- 老練弁護士としてのページへのリンク