絵本の制作経緯
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1961年に『かさじぞう』(福音館書店)で絵本画家としてデビューした赤羽末吉は、その制作前後に第二作の題材について福音館書店の松居直に問われ、「蒙古ものがかきたい」と答えた。資料の問題により大塚の『スーホの白い馬』の原稿を見るまで時間がかかった。ミンガド・ボラグはこれを理由に『スーホの白い馬』の生みの親は大塚でも松居でもなく赤羽であるとしている。赤羽は戦前戦中に満州国に居住し、1943年には満州国政府が計画した「チンギス・ハーン廟」の壁画制作を依頼され、取材として他の5人のメンバーとともに約1か月間内モンゴルを訪問して写真やスケッチを残していた。 1961年、『こどものとも』の穴埋め原稿として大塚による『スーホの白い馬』を示されて1か月で制作する。同年10月の『こどものとも』67号に掲載された。制作期間の短さに加え、印刷では赤羽の思った色調が出なかったことから、赤羽自身は不満の残る出来であったという。しかし、読者からは再版の希望が複数寄せられた。1964年に表紙を描き足して刊行することがいったん決まり、赤羽も表紙絵を描いたものの、結局その時点では刊行には至らなかった。この経緯について赤羽自身は生前「(『こどものとも』に掲載した)原画が印刷所の火災で焼失したから」としていたが、実際には本作の原画は焼けていなかった(焼けたのは『かさじぞう』)。赤羽はこの誤解に基づいて、横開きの大判絵本で描き直す提案をし、松居はそれを受け入れた。松居も紙も印刷も赤羽の絵本を活かし切れず満足な出来ではないと考えていた。横開きの大判絵本という判型には、社内の営業部から「それでは書店が置いてくれない」と反対する意見があったが、松居は「子どもたちのために絵本を作る」と説得したという。 1965年の赤羽の手帳には、本作の創作メモが残されている。実際の作画に取りかかったのは1966年で、改稿された絵本が刊行されたのは1967年10月だった。
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