絵本の制作経緯とは? わかりやすく解説

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絵本の制作経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 01:34 UTC 版)

スーホの白い馬」の記事における「絵本の制作経緯」の解説

1961年に『かさじぞう』(福音館書店)で絵本画家としてデビューした赤羽末吉は、その制作前後第二作の題材について福音館書店松居直問われ、「蒙古ものがかきたい」と答えた資料問題により大塚の『スーホの白い馬』の原稿を見るまで時間かかった。ミンガド・ボラグはこれを理由に『スーホの白い馬』の生みの親大塚でも松居でもなく赤羽であるとしている。赤羽戦前戦中満州国居住し1943年には満州国政府計画したチンギス・ハーン廟」の壁画制作依頼され取材として他の5人のメンバーとともに1か月間内モンゴル訪問して写真スケッチ残していた。 1961年、『こどものとも』の穴埋め原稿として大塚による『スーホの白い馬』を示され1か月制作する同年10月の『こどものとも67号に掲載された。制作期間短さ加え印刷では赤羽思った色調が出なかったことから、赤羽自身は不満の残る出来であったという。しかし、読者からは再版希望複数寄せられた。1964年表紙描き足して刊行することがいったん決まり赤羽表紙絵描いたものの、結局その時点では刊行には至らなかった。この経緯について赤羽自身生前「(『こどものとも』に掲載した原画印刷所火災焼失したから」としていたが、実際に本作原画焼けていなかった(焼けたのは『かさじぞう』)。赤羽はこの誤解基づいて、横開き大判絵本描き直す提案をし、松居はそれを受け入れた松居も紙も印刷赤羽絵本活かし切れず満足な出来ではないと考えていた。横開き大判絵本という判型には、社内営業部から「それでは書店置いてくれない」と反対する意見があったが、松居は「子どもたちのために絵本作る」と説得したという。 1965年赤羽の手帳には、本作創作メモ残されている。実際作画取りかかったのは1966年で、改稿された絵本刊行されたのは1967年10月だった。

※この「絵本の制作経緯」の解説は、「スーホの白い馬」の解説の一部です。
「絵本の制作経緯」を含む「スーホの白い馬」の記事については、「スーホの白い馬」の概要を参照ください。

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