終わらぬ戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 21:08 UTC 版)
「アフリカ系アメリカ人公民権運動」の記事における「終わらぬ戦い」の解説
しかし、アメリカ国内における一部の白人による有色人種への人種差別感情はその後も収まらず、公民権法制定後の1965年3月7日には、アラバマ州セルマで「血の日曜日事件」と呼ばれる、白人警察官による黒人を中心とした公民権運動家へ対する暴力事件が発生した。さらに、人種差別感情が強い南部を中心に、公民権法の制定や人種差別の解消に抵抗するクー・クラックス・クランなどの白人至上主義団体による黒人に対するリンチや暴行、黒人の営む商店や店舗、住居への放火、またそれらに対する白人警察官による取り締まりの放棄なども継続的に起きていた。 一方、黒人による反人種差別運動の一部勢力は、公民権法制定以降もなくならない人種差別への悲観と、1968年4月4日のキング牧師の暗殺による指導者の不在、そしてベトナム戦争下で混乱する国内情勢の影響を受けて、非暴力主義を貫いたキング牧師が代表する平和的・合法的な反差別運動から、暴力などの非合法的な手段を用いることを否定しない過激な運動(1965年に暗殺されたマルコムXの影響が強いとされる)が大きく支持を受けるなど変化していく。 キング牧師の暗殺直後には、ロサンゼルスやセントルイスなど、大都市圏を含む全米125の都市で一斉に暴動が発生した。これに対してジェームス・ブラウンなどの多くの黒人スターや公民権運動の指導者らは暴動を鎮静化させるべく動いたものの、これに対してトリニダード・トバゴ生まれのストークリー・カーマイケル率いる急進派の学生非暴力調整委員会(SNCC)や、冷戦下においてアメリカと思想的に敵対していた共産主義や毛沢東主義などの影響を受け、都市部のゲットーにおける自衛闘争の開始を主張したブラックパンサー党、黒人による独立国の樹立を目指した新アフリカ共和国(Republic of New Africa)といった過激派の政党が現れ闘争を継続した。 ブラックパンサー党の党員数は1968年には5000人以上に達し、全米に40の支部が置かれ、機関紙「ザ・ブラック・パンサー」は40万部以上が発行されるなど、一部の黒人からの熱狂的な支持を受けたものの、メンバーが複数の警官射殺事件を起こした上に、政府機関のビル爆破計画の発覚や共産主義との結びつき、リチャード・ニクソン大統領の暗殺を示唆するなどの過激な手法、主張が継続的かつ広範な支持を受けることはなく、ベトナム戦争が終結した1970年代中頃になって運動は沈静化した。
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