精神面の支柱、フッテン
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フッテン 荒廃したステッケルベルク城。 フッテン(左から2番め)とルター(左から3番目) ジッキンゲン 話し合うフッテンとジッキンゲン ブツァー エコランパッド ウルリヒ・フォン・フッテン(1488-1523)は、フランケン地方とヘッセン方伯領の境界付近、ステッケルベルク城生まれの下級貴族である。騎士身分を持っていたとはいえ、フッテン家は明らかに落ち目だった。フッテンは10歳で神学校に入れられて、ドイツ各地で神学の勉強をして育った。しかし18歳の頃にブランデンブルク選帝侯領のフランクフルト・オーデル(ドイツ東部のオーデル川の畔にある都市。ドイツ中部の大都市フランクフルトではない。)の大学で文学に触れると、神学校を中退して文学の道に入り、ライプツィヒ大学に学んだ。そこで人文主義に目覚めるのだが、まもなくライプツィヒを流行病が襲い、フッテンはライプツィヒを離れて数年間の旅に出た。1年ほど北海を放浪したあと、ボヘミア、ウィーン、北イタリアでのパヴィーアやボローニャを周った。この間、フッテンは学生と傭兵として生活を送っていたという。 1514年にドイツに戻ると、フッテンはエラスムスの知遇を得て、エラスムスの助手をしながら数年を共に過ごしたという。その間、フッテン自身も著作を行っていて、『Epistulae obscurorum virorum』(1516年)などの作品が知られている。これは人文主義の立場から教会を批判するものであったが、教義や教皇を直接攻撃するほどの内容ではなく、組織に対する批判を述べたようなものだった。翌1517年には、マクシミリアン1世によって桂冠詩人の誉れを授けられている。このあとフッテンはマクデブルク大司教(ドイツ語版、英語版)のアルブレヒト(ドイツ語版、英語版)に仕えた。このマクデブルク大司教アルブレヒトは、まもなくマインツ大司教となり、贖宥状の販売でルターによる教会批判の引き金となる人物である。しかしまもなくフッテンは反ローマ的な著作のせいでアルブレヒトのもとを去らなければいけなくなった。 その後もフッテンは大司教アルブレヒトや、新皇帝カール5世にたびたび手紙を出して、カトリック教会の改革の必要性を説いた。しかしそれは無視された。やがてフッテンは激しい愛国心とローマに対する敵愾心を露わにし、教会に対する革命的闘争を企図するようになっていった。その著作は初めはラテン語だったが、後にはドイツ語で著すようになり、1520年には『対話集』を著した。これはドイツの愛国主義とローマ教会批判の性格を強く帯びたものだった。フッテンは人文主義者の中で、政治家として最も目立つ存在となっていった。 その頃教会批判を始めたルターに対し、フッテンは書簡を送り、その中で「どんなことがおころうとも私が傍についております。われらは共通の自由を擁護しようではありませんか」と述べ、ルターを強く支持することを表明していた。しかしフッテンは本物のルター派ではなかったと考えられている。フッテンは教義の面ではルターとは考えの合わない部分もあったが、教会改革を実現するためにはルターの力が必要と考えていた。1521年のヴォルムス帝国議会にルターの召喚が決まると、フッテンはさかんにカール5世に手紙を出して、ルターの考えを容れるように訴えた。 この後の宗教改革の動きは、ルターの意図に反して急進的で過激な方向に進んでいった。ルター自身は寛容さと忍耐によってゆっくり着実な改革を望んでいたのだが、ヴォルムス帝国議会に出席して帝国アハト刑を宣告されたルターがその直後に「失踪」してしまったことで、指導者を失った宗教改革派が過激化してしまったのである。フッテンは「剣と筆の闘士」として、そうした過激な蜂起の精神面を担う立場になっていった。
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