米倉の新説と黒田の補論とは? わかりやすく解説

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米倉の新説と黒田の補論

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:50 UTC 版)

神護寺三像」の記事における「米倉の新説と黒田の補論」の解説

更に1995年当時東京国立文化財研究所米倉迪夫により、伝源頼朝像は足利直義像であるとする新説発表され大きな反響巻き起こしたその後歴史学者黒田日出男米倉説を補強する所説発表している。 米倉黒田らの論拠多岐に渡るが、主要なものとしては源の論説追認し、着用している冠の形式鎌倉末期以降にしか見られないこと、修理報告書確認できる毛抜太刀下部残存する痕跡から、当初尊氏後醍醐天皇から賜った桐紋俵鋲をつけた太刀であったこと、三像に使用されるほどの大きさの絹は鎌倉後期以降出現しそれ以前は絹をつないでいたこと、三像の表現様式眉・目・耳・唇等の画法)は、14世紀中期室町時代前期)の肖像(「夢窓疎石像」天龍寺妙智院)との強い類似認められること、などであり、これらから三像の成立南北朝期に置くことが最も自然であるとする。 もう一つ新説有力な論拠となっているのが、康永4年1345年4月23日日付の『足利直義願文』である。同願文足利直義神護寺にあてて発出したもので、「当家足利家)は特に因縁があり、代々深く帰依して参りましたので、阿含経一軸供に征夷将軍足利尊氏)と自分影像神護寺安置します。良縁をこの場で結び、現世来世の(私の)所願ことごとく円満に成就しますように。」との内容を持つ。三像の強い共通性足利将軍家由来し、この願文元に通常2人肖像並立する場合、右に上位者、左に下位者を配置することなどを根拠として、米倉左向きの伝平重盛像が足利尊氏右向きの伝源頼朝像が足利直義であると比定する。 また、重盛像と同じ左向きの伝藤原光能像は、新説では足利義詮比定されている。米倉は、京都等持院所蔵足利義詮木像風貌が伝藤原光能像と酷似していることを論拠としているが、他方黒田政治史観点に基づく義詮説を提示している。1345年から数年間は尊氏直義二頭政治が行われたが、観応の擾乱両者の関係崩壊し観応2年直義尊氏勝利すると、尊氏は一旦政治第一線から退き直義尊氏の子義詮パートナー選び新たな二頭政治開始した黒田は、この時に尊氏像(伝重盛像)の代替として新たに義詮像(伝光能像)が描かれたのであり、尊氏像に見られる大きな欠損折りジワは、義詮像が描かれた際に用済みとなった尊氏像が折り畳まれていたことを示すものだとした。他にも義詮像(伝光能像)は、口元という顔のパーツ基本的な部位修正がされているが、これは義詮貞和5年1349年10月まで長く鎌倉にいたため、義詮相貌に関して得ていた情報不備があったためと説明することができ、通説における伝光能像が少し後に出来たという判断にも合致する論じた。さらに足利尊氏直義兄弟双方著作(『足利尊氏角川選書平成29年初版同年再版。『足利直義平成27年初版平成29年再版)を有する森茂暁米倉黒田説を比較検討したうえで南北朝・室町期専門史家立場から論を展開していて注目される

※この「米倉の新説と黒田の補論」の解説は、「神護寺三像」の解説の一部です。
「米倉の新説と黒田の補論」を含む「神護寺三像」の記事については、「神護寺三像」の概要を参照ください。

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