米倉の新説と黒田の補論
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「神護寺三像」の記事における「米倉の新説と黒田の補論」の解説
更に1995年、当時東京国立文化財研究所の米倉迪夫により、伝源頼朝像は足利直義像であるとする新説が発表され大きな反響を巻き起こした。その後、歴史学者の黒田日出男が米倉説を補強する所説を発表している。 米倉・黒田らの論拠は多岐に渡るが、主要なものとしては源の論説を追認し、着用している冠の形式が鎌倉末期以降にしか見られないこと、修理報告書で確認できる毛抜型太刀の下部に残存する痕跡から、当初は尊氏が後醍醐天皇から賜った桐紋の俵鋲をつけた太刀であったこと、三像に使用されるほどの大きさの絹は鎌倉後期以降に出現し、それ以前は絹をつないでいたこと、三像の表現様式(眉・目・耳・唇等の画法)は、14世紀中期(室町時代前期)の肖像(「夢窓疎石像」天龍寺妙智院蔵)との強い類似が認められること、などであり、これらから三像の成立は南北朝期に置くことが最も自然であるとする。 もう一つ新説の有力な論拠となっているのが、康永4年(1345年)4月23日の日付の『足利直義願文』である。同願文は足利直義が神護寺にあてて発出したもので、「当家(足利家)は特に因縁があり、代々深く帰依して参りましたので、阿含経一軸と供に征夷将軍(足利尊氏)と自分の影像を神護寺に安置します。良縁をこの場で結び、現世と来世の(私の)所願がことごとく円満に成就しますように。」との内容を持つ。三像の強い共通性は足利将軍家に由来し、この願文を元に、通常2人の肖像が並立する場合、右に上位者、左に下位者を配置することなどを根拠として、米倉は左向きの伝平重盛像が足利尊氏、右向きの伝源頼朝像が足利直義であると比定する。 また、伝重盛像と同じ左向きの伝藤原光能像は、新説では足利義詮に比定されている。米倉は、京都等持院所蔵の足利義詮木像の風貌が伝藤原光能像と酷似していることを論拠としているが、他方、黒田は政治史的観点に基づく義詮説を提示している。1345年から数年間は尊氏・直義の二頭政治が行われたが、観応の擾乱で両者の関係が崩壊し、観応2年に直義が尊氏に勝利すると、尊氏は一旦政治の第一線から退き、直義は尊氏の子・義詮をパートナーに選び、新たな二頭政治を開始した。黒田は、この時に尊氏像(伝重盛像)の代替として新たに義詮像(伝光能像)が描かれたのであり、尊氏像に見られる大きな欠損や折りジワは、義詮像が描かれた際に用済みとなった尊氏像が折り畳まれていたことを示すものだとした。他にも義詮像(伝光能像)は、口元という顔のパーツの基本的な部位に修正がされているが、これは義詮が貞和5年(1349年)10月まで長く鎌倉にいたため、義詮の相貌に関して得ていた情報に不備があったためと説明することができ、通説における伝光能像が少し後に出来たという判断にも合致すると論じた。さらに足利尊氏と直義兄弟双方の著作(『足利尊氏』角川選書、平成29年初版、同年再版。『足利直義』平成27年初版、平成29年再版)を有する森茂暁は米倉、黒田説を比較検討したうえで南北朝・室町期の専門史家の立場から論を展開していて注目される。
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