筑波移転問題が生起
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「筑波移転反対闘争」の記事における「筑波移転問題が生起」の解説
1963年8月27日に、筑波研究学園都市建設の閣議決定が発表された。この計画では、研究学園都市の中核的施設の一つとして国立の総合大学が構想される。「国立の総合大学」を置くためには、国立の単科大学の統合もありうるが現実的でない。文部省には大学新設の意図はなかった。そうなると、都内の国立総合大学を移転させるか、茨城大学を水戸から筑波に移転させるしかない。都内の国立総合大学は3つだけだ。それを考慮すれば、この計画に合わせて筑波に移転する大学としては教育大学が唯一といえるほどである。こうして教育大学の筑波移転問題が浮上した。 教育大は、筑波研究学園都市建設の閣議決定以前から、その事務局である首都圏整備委員会と連絡を取り、計画を知らされていた。研究学園都市は、貿易自由化に対処して国際的水準の研究体制を完成することを目指していた。理科系中心の研究学園都市構想である。首都圏整備委員会にとって、(工学部はないが)理科系学部をも有する総合大学だった教育大は格好の対象だった。教育大では63年9月3日以降、相次いで臨時教授会が開かれ、この問題についての検討が重ねられた。1963年9月7日に開かれた評議会での各学部の態度は、以下のようであった。体育学部と農学部は条件付賛成。教育学部も条件付賛成であるが、条件については今後くわしく検討する。理学部は慎重論が多く7日までには結論が出なかった。文学部も慎重論が多数を占め16対50で今すぐ移転することには反対だった。光学研究所は無条件賛成だった。この条件付賛成の「条件」とは、「政府・首都圏整備委員会のいうような、あらゆる面で理想的な研究学園都市ができるならば、はじめは多少の不便もあろうが、この機会に移転しよう」というものだった。また、文理両学部の慎重論とは、「政府側が理想的な新都市を作るためにどの程度うちこむか疑問だ。たとえ、やる気があるとしても、このような大規模な文教予算は財政的に出せないのではないか。またこのような重要事項は、どういうものか見通しもはっきりしないままに決定を早急に下すことは無理で、少なくとも1年くらい検討することが必要だ」というものだった。次回の臨時評議会は9月13日に開かれたが、「ここでは早急に結論は出さず、今後も徹底的に意見の調整を図る」ということで、決定を保留した。 この頃、教育大文学部自治会を握っていた構造改革派系の共青(=共産主義青年同盟)は、筑波移転に反対していなかった。「移転問題は単に移転の可否を問うているのではなく、科学技術革新にいかに対処していくかが問われている。材料不足でまだ結論は出せない。教育大の発展も十分に考慮する必要はあるが、単に教育大の問題ではなく、全国の学生・学問研究者の問題でもある。また、これを契機に、学内民主化を図り審議過程への学生参加を求めたい」との論調であった。 しかし、文部省・大蔵省では、研究学園都市構想に予算をつけて土地買収を進めるためには、具体的な計画が必要であり、そのために教育大の早い結論と意思表示を求めていた。ただし、64年度予算として、教育大の意思表明なしに、用地買収・仮設道路建設費147億円の予算要求が認められた。
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