筑波移転問題の前史とは? わかりやすく解説

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筑波移転問題の前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 09:01 UTC 版)

筑波移転反対闘争」の記事における「筑波移転問題の前史」の解説

東京教育大学は、キャンパスが3か所に分散し文京区大塚には文学部理学部教育学部が、目黒区駒場には農学部が、渋谷区幡ヶ谷には体育学部があった。すべての国立大学その後創設を除く)がそうであるが、教育大は1949年新制大学としてそれまで4つ学校統合して発足している。その経緯キャンパス分散したタコ足大学だった。キャンパス分散した上に、そのキャンパス狭かった1962年当時大学院を持つ国立大学としては、敷地全国最小だった<東教大キャンパス写真集>。 大学の最高意志決定機関である評議会で、62年5月に、5学部統合問題として浮上した9月28日評議会では、「適当な敷地みつけて5学部統合行なうこと。その検討評議会の会内組織である施設小委員会があたること」を決定した1962年八王子などへの独自移転検討したとりわけ本格的に交渉されたのが、八王子南部東松山原町田八王子北部の4か所であった。しかし、独自移転実現難しい。予算措置どうするのか、どのようにして用地買収をするのかを中心に多くの困難を伴い、全くの失敗といえる状態になっていた。 『教育大学新聞』(1962年12月25日号)に、次の記事がある。 以前から5学部1つの地に集まることと、敷地拡大することが望まれていたが、現在評議会施設小委員会検討進められている。この問題幡ヶ谷体育学部敷地がとくに狭いため、同学部が積極的に働き、他学部もそれに同調してすすめられているものであるこれまでに、第一候補地として府中南多摩郡稲城町)があげられていたが、現在そこはアメリカ軍使用しており、今後も当分返還見込みがないため、他の土地探していた。最近になって八王子市の南3キロところに36坪の土地候補地としてあげられるいたった。そこで同委員会でも現地視察行った。そこは交通の便もよく、環境にも恵まれているが、民有地である(土地所有者160人)ため、その買収には相当の困難がともなう模様である。さらに現在東京都もそこを墓地として使用する計画進めており、すでに年内手付金3億円を支払うとの話もある。大学側としては、その方動向見たうえで都が買収しない場合には、その地への大学移転本格的に計画する予定である。 『教育大学新聞』(1963年1月25日号)に、次の記事がある。 候補地として注目されていた八王子南方36坪の民有地について、昨年春、東京都墓地にすることをあきらめたため教育大学正式に交渉乗り出した三輪学長も現地視察し立地条件には満足しできれば移転というところまでいった。しかし、本年入って現金化を急ぐ地主側から返事迫られ12日臨時評議会開いて検討した結果10億超える予算早急にとりつけることが無理であることなどから、この問題は一応白紙還元することになった

※この「筑波移転問題の前史」の解説は、「筑波移転反対闘争」の解説の一部です。
「筑波移転問題の前史」を含む「筑波移転反対闘争」の記事については、「筑波移転反対闘争」の概要を参照ください。

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