筑波郡の中心地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:15 UTC 版)
「谷田部 (つくば市)」の記事における「筑波郡の中心地」の解説
明治時代になると、内町村・新町村・台町村が合併し、谷田部町となる。陣屋は明治2年(1869年)に谷田部から下野国茂木(現在の栃木県芳賀郡茂木町)に移され、明治4年(1871年)には藩名が茂木藩に改められた。近代化も進み、1874年(明治7年)に谷田部郵便局、1875年(明治8年)に谷田部小学校、1876年(明治9年)に谷田部警察出張所(谷田部警察署→筑波学園警察署→つくば中央警察署→つくば北警察署と統合し、現在はつくば警察署)、1878年(明治11年)に筑波郡役所、1887年(明治20年)に土浦区裁判所谷田部出張所、1896年(明治29年)に谷田部税務署が相次いで開設された。明治の大合併では周辺13村と合併して新しい谷田部町が発足、谷田部は同町の大字となり、町役場が設置されるなど中心地となった。 1890年(明治23年)には新治郡土浦町(現在の土浦市中心部)と水海道町(現在の常総市中心部)を結ぶ「谷田部街道」が開通、1891年(明治24年)には五十銀行が谷田部支店を設置、1923年(大正12年)には現在の茨城県立つくば工科高等学校の前身である谷田部女子農業補習学校が開校するなど、筑波郡の中心としての機能を強めた。常南電気鉄道が土浦と水海道を結ぶ鉄道の建設を計画し、谷田部でも一部線路を建設するための土手が完成していたが、開通には至らなかった。1938年(昭和13年)には集中豪雨による谷田川の氾濫で大きな被害が発生するが、翌1939年(昭和14年)には谷田部町内に谷田部海軍航空隊が開隊したことで、休日には軍人が谷田部に来るようになり、商店街は賑わった。谷田部には舞妓や芸者のいる旅館、映画館、料亭、雑貨店、薬局などがあり、賑いは戦後しばらくまで続いた。このうち、映画館「玉川館」を運営していた和菓子店の玉川堂は2014年現在も大福などの販売を続けている。
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