筑波大学の発足へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 09:01 UTC 版)
「筑波移転反対闘争」の記事における「筑波大学の発足へ」の解説
東京教育大学の移転推進派は、1967年6月の「土地確保表明決定」以降、7-8月には「マスタープラン検討委員会」を組織、11月7日には評議会にマスタープラン8項目が報告される、11月9日にはマスタープラン委員会のワーキンググループを発足させる、1968年3月29日にマスタープラン委員会が評議会で構想試案を報告、1969年7月4日にマスタープラン委員会が評議会に移転計画を答申(24日には評議会がこれを移転計画として決定<新聞記事>)、1971年6月10日に評議会が「筑波新大学に関する基本計画案」を決定(文学部は欠席)といった経過をたどって、大学としての「新大学プラン」を策定していた。しかし、一方では文部省が、1969年11月21日に省内に「筑波新大学創設準備調査会」を発足させ<新聞記事>、1970年10月21日にこの筑波新大学創設準備調査会で「筑波新大学のあり方について」の中間報告を行い、1971年7月16日に「筑波新大学のあり方について」の報告を文部大臣に提出するというまったく別途な「新大学プラン」を練っていた。 「筑波大学」をどのような大学にするかについては、この推移を見るだけでも、東京教育大学の意向で決めたものではないことが分かる。両者の混淆である。 文部省はこれ以後、医学部不在の県で単科の医科大学を、また3つの「教育大学」を新設する。特に前者(一県一医大構想)にあっては、本来はその県にある既存の国立大学に医学部を新設すべきなのだが、すべて単科大学の新設でことを済ませている。その県にある既存の国立大学の評議会・教授会との折衝の煩を厭った文部官僚の手抜きである。それらの端緒でもあった。 こうして、1973年2月9日に筑波大学法案(国立学校設置法改定案)が閣議決定され、9月25日にはそれが国会を通過し成立する。これによりさっそく10月1日には筑波大学が開学し、初代学長に三輪知雄が就任した。その翌年の74年に、筑波大学としての第一期生が入学したわけである。 筑波大学には学部制度がなく学群・学類制度であるが、74年4月には教育学部・農学部に相当する分野の学群・学類が開学できなかったのか、74年4月に東京教育大学教育学部・農学部で学部学生の入学があった。このため、教育大の消滅は文理体の3学部と、教・農の2学部とでは、スケジュールが異なることになった。文・理・体の3学部では77年3月の定員消滅に合わせて、4年前に最後の学部生受け入れ、3年前に最後の博士課程生受け入れ、2年前に最後の修士課程生受け入れとなった。一方、教育学部・農学部では78年3月の定員消滅に合わせて、同様の措置が採られたのである。
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