筑波大学移転に関して
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柴田(当時茗渓会副理事)と学友であった三輪知雄(初代筑波大学学長)が東京教育大学(後の筑波大学)学長に就任していた関係で、三輪より「もう、あの狭い小石川の校舎では教育出来ない」との相談を受ける。母校ということもあり、柴田曰く「学部が方々に蛸の足のように散らばっている環境はいただけない」と同意した。「たまたま河野一郎氏が筑波の土地を選んで筑波研究学園都市をつくるからそれに行かないか、との勧奨を文部省からうけた。じゃあいこうということになったが...」 「八年もの戦いだったね、三輪君は。彼は本当の教育家だよ。しかし、長い間ゴタゴタしてねえ。学長を救いだすとか、会合ができないからどうするとか、警察と役所と政府との連絡などの援護射撃が骨が折れたね。でもあれは僕の今までにやってきたことで、一番いいことの一つだと自負している。文部省があそこをモデル大学にしてさまざまの大学改革をおこなう橋頭堡なんだから、日本の大学のあり方が変わるよ。七十万坪もある広大さで、これは本郷の東大キャンパスから水道橋まであるというほどで、イギリスでいえば、エセックスとかサセックスとかいうところと比肩するほどのものになる。敷地の広さだけじゃなく、学術会議も国際会議もできる。ああいうところで国家有為の人材が育つ。いまはまだ不便だが、交通機関がそのうちできるからスーッといけるようになる。交通の便がよくなりゃ、いい先生たちも集まるようになる。学校という所は先生できまるな」と対談上で述懐している。 江田昌佑(元筑波大学副学長・元鹿屋体育大学学長)は『柴田周吉先生 筑波大学創設の大恩人』と題し「私が筑波大学創設にわずかながらも関わることができ、その後の草創期も全力を投入することができたのは、先生のご薫陶を得たおかげであり、わたし自身ひそかに誇としているところです。先生が筑波にご来駕の折、時に私を呼んで下さり種々お話し下さいました。大学は自由でなくてはならないこと、筑波大学はあくまで総合大学として発展すること、法科関係を充実させることなど、今でも私には生きた言葉として脳裏にあります。」と、その想い出を平成13年の寄稿文に記している。 柴田曰く「筑波大学完成後、付属校を東京に残す為に筑波に中学と高校を国費で作ることはできないか、ということで同窓会の茗渓会で作ったのが茗渓学園である。新しいタイプの国際的な学校である。将来が楽しみである。」と述べている。
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