筑波大学移転に関してとは? わかりやすく解説

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筑波大学移転に関して

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 17:08 UTC 版)

柴田周吉」の記事における「筑波大学移転に関して」の解説

柴田当時茗渓会副理事)と学友であった三輪知雄初代筑波大学学長)が東京教育大学(後の筑波大学学長就任していた関係で、三輪より「もう、あの狭い小石川校舎では教育出来ない」との相談を受ける。母校ということもあり、柴田曰く学部方々蛸の足のように散らばっている環境いただけない」と同意した。「たまたま河野一郎氏が筑波土地選んで筑波研究学園都市をつくるからそれに行かないか、との勧奨文部省からうけた。じゃあいこうということになったが...」 「八年もの戦いだったね、三輪君は。彼は本当教育家だよ。しかし、長い間ゴタゴタしてねえ。学長救いだすとか、会合できないかどうするとか、警察役所政府との連絡などの援護射撃が骨が折れたね。でもあれは僕の今までにやってきたことで、一番いいことの一つだと自負している。文部省があそこをモデル大学にしてさまざまの大学改革をおこなう橋頭堡なんだから、日本の大学あり方が変わるよ。七十坪もある広大さで、これは本郷東大キャンパスから水道橋まであるというほどで、イギリスでいえば、エセックスとかサセックスとかいうところと比肩するほどのものになる敷地の広さだけじゃなく、学術会議国際会議もできる。ああいうところで国家有為人材が育つ。いまはまだ不便だが、交通機関そのうちできるからスーッといけるようになる交通の便がよくなりゃ、いい先生たちも集まるようになる学校という所は先生できまるな」と対談上で述懐している。 江田昌佑(元筑波大学副学長・元鹿屋体育大学学長)は『柴田周吉先生 筑波大学創設大恩人』と題し「私が筑波大学創設わずかながらも関わることができ、その後草創期全力投入することができたのは、先生のご薫陶得たおかげであり、わたし自身ひそかに誇としているところです。先生筑波ご来駕の折、時に私を呼んで下さり種々お話下さいました。大学は自由でなくてはならないこと、筑波大学はあくまで総合大学として発展すること、法科関係を充実させることなど、今でも私には生きた言葉として脳裏あります。」と、その想い出平成13年寄稿文記している。 柴田曰く筑波大学完成後、付属校東京に残す為に筑波中学高校国費作ることはできないかということ同窓会茗渓会作ったのが茗渓学園である。新しタイプ国際的な学校である。将来が楽しみである。」と述べている。

※この「筑波大学移転に関して」の解説は、「柴田周吉」の解説の一部です。
「筑波大学移転に関して」を含む「柴田周吉」の記事については、「柴田周吉」の概要を参照ください。

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