筑波大競技部とは? わかりやすく解説

筑波大競技部(1974-)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 16:02 UTC 版)

筑波大学陸上競技部」の記事における「筑波大競技部(1974-)」の解説

1974年昭和49年3月ある日保谷寮に部員集められ、「いつから筑波大学陸上競技部名乗るか」が議論された。翌4月から筑波大学1期生入学し教育大陸競技部に筑波大生の入部予想されたためである。議論白熱し、「翌4月から筑波大陸上競技部改名」、「教育大と筑波大在籍者が2学年ずつになる翌年改名」、「全員筑波大生となる翌々々年まで改名しない」の3案に絞られたが結論出ず一任され武政部長鶴の一声で翌4月から筑波大陸上競技部名乗ることになった筑波大学への移行後、全国高等学校総合体育大会インターハイ優勝者など有力な選手入部続き部員は1学年50人以上、総勢200人超の大所帯となる。 チーム名筑波大統一されとはいえ教育大時代入学した部員そのまま保谷で、筑波大入学した部員はつくば(当時はまだ新治郡桜村だった)でそれぞれ練習を積むという状態となり、指導者それぞれ配置されたものの、保谷とつくばを往来する日々が続くこととなる。統一初年度日本インカレ男子が6位、女子入賞ならずという結果であった1976年昭和51年)の日本インカレ男女とも3位全員筑波大となった1977年昭和52年)は男子3位女子が5位入賞であったこの年初めすべてのブロックコーチ揃い、全種目指導ができるようになったその後男子高順位を維持し女子人数不足から入賞逃す年があるという状況続き1985年昭和60年)に男子が実に45年ぶりとなる優勝果たした1988年昭和63年)は男子1種優勝のみの3位沈んだ一方で女子が初の優勝掴んだ平成入った最初日本インカレ1989年=平成元年)は、男子優勝種目なしだったものの3位維持女子複数種目制覇ながら5位に転落した一方この頃から女子入部者の増加とともに従来男子優先活動から男女平等活動へと移行していき、「男女アベック優勝」が掲げられるようになっていく。1990年平成2年)、女子2度目優勝を果たすと、2006年平成18年)まで怒涛優勝17回を積み重ねることになる。一方男子この間2001年平成13年)と2003年平成15年)に優勝し2度アベック優勝達成している。その後女子2009年平成21年)から2014年平成26年)まで6回連続優勝続け2018年平成30年)に4年ぶりの優勝男子4年ぶりの3位)を果たした男子2008年平成20年)に優勝したが、この年女子優勝福島大だったのでアベック優勝とはならなかった。

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