筑波大競技部(1974-)
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「筑波大学陸上競技部」の記事における「筑波大競技部(1974-)」の解説
1974年(昭和49年)3月のある日、保谷寮に部員が集められ、「いつから筑波大学陸上競技部を名乗るか」が議論された。翌4月から筑波大学1期生が入学し、教育大陸上競技部に筑波大生の入部が予想されたためである。議論は白熱し、「翌4月から筑波大陸上競技部に改名」、「教育大と筑波大の在籍者が2学年ずつになる翌年に改名」、「全員が筑波大生となる翌々々年まで改名しない」の3案に絞られたが結論は出ず、一任された武政部長の鶴の一声で翌4月から筑波大陸上競技部を名乗ることになった。筑波大学への移行後、全国高等学校総合体育大会(インターハイ)優勝者など有力な選手の入部が続き、部員は1学年50人以上、総勢200人超の大所帯となる。 チーム名が筑波大に統一されたとはいえ、教育大時代に入学した部員はそのまま保谷で、筑波大に入学した部員はつくば(当時はまだ新治郡桜村だった)でそれぞれ練習を積むという状態となり、指導者はそれぞれ配置されたものの、保谷とつくばを往来する日々が続くこととなる。統一初年度の日本インカレは男子が6位、女子は入賞ならずという結果であった。1976年(昭和51年)の日本インカレは男女とも3位、全員が筑波大生となった1977年(昭和52年)は男子が3位、女子が5位入賞であった。この年、初めてすべてのブロックにコーチが揃い、全種目の指導ができるようになった。その後も男子は高順位を維持し、女子は人数不足から入賞を逃す年があるという状況が続き、1985年(昭和60年)に男子が実に45年ぶりとなる優勝を果たした。1988年(昭和63年)は男子が1種目優勝のみの3位に沈んだ一方で、女子が初の優勝を掴んだ。 平成に入った最初の日本インカレ(1989年=平成元年)は、男子が優勝種目なしだったものの3位を維持、女子は複数種目制覇ながら5位に転落した。一方この頃から女子の入部者の増加とともに従来の男子優先の活動から男女平等な活動へと移行していき、「男女アベック優勝」が掲げられるようになっていく。1990年(平成2年)、女子が2度目の優勝を果たすと、2006年(平成18年)まで怒涛の優勝17回を積み重ねることになる。一方の男子はこの間、2001年(平成13年)と2003年(平成15年)に優勝し、2度のアベック優勝を達成している。その後、女子は2009年(平成21年)から2014年(平成26年)まで6回連続の優勝を続け、2018年(平成30年)に4年ぶりの優勝(男子は4年ぶりの3位)を果たした。男子は2008年(平成20年)に優勝したが、この年の女子優勝は福島大だったのでアベック優勝とはならなかった。
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