第2次成田デモ事件
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1968年3月10日、空港反対同盟と全国反戦青年委員会が共催で成田市営グランドで「空港粉砕・ベトナム反戦総決起集会」を再び開催、総勢4500人が集結する。 警察側では2月26日の集会で大きな被害を出したことから「違反行為者は断固として検挙する」と方針が出され、歴戦の警視庁機動隊を含む4700人の大警備陣を動員する準備を整えた。さらに3月7日には地域住民に対し警備に関する説明会を実施するともに広報車を巡回させた。これに対して学生側も賛同を呼び掛けるビラを撒いて抵抗。こうした事前情報から集会当日には群衆が溢れたが、多くは見物目的であり学生らの抗議運動に協力するものではなかった。反対運動を支援する日本社会党は集会を指示して淡谷悠蔵・伊藤茂ら国会議員を含む「不当弾圧監視団」を、空港建設を推進する自由民主党は相川勝六を団長とする「治安監視議員団」をそれぞれ派遣した。 集会後、機動隊と墓地に隠していた凶器等で武装したデモ隊が大規模衝突を起こす。機動隊はガス弾でもデモ隊を止められなかったが、3台の放水車から催涙剤入りの水を一斉に放出することで漸く沈静化させる。 衝突後に反対派が解散集会を開いていたところ、機動隊5000人が違法集会として規制を開始。機動隊は反対派に対しガス弾を撃ち込んだうえで突入(規制開始までに学生や野次馬らに対し、拡声器による警告が複数回行われた)。ガス弾は野次馬(弁当や酒を持ち込んで見物に来ていたものが大勢いた)がいる場所にまで多数飛んで来るほど撃ち込まれ、風が止んで催涙ガスが滞留した会場は大混乱となる。徹底した規制により空港反対派は150人以上の逮捕者と1000人以上の負傷者を出す。機動隊の負傷者は453人。沈静化後に成田警察署長が機動隊一個大隊を引き連れて市街を行進し、鎮圧をアピール。 この騒動で市役所庁舎の窓ガラスが破損したほか、学生や野次馬によって店や住居を荒らされた周辺住民らからは怒りの声が上がった。一方、旧成田町地区の区長らは「公団を他の適当な場所へ移転されたい」との要望書を出す。また、交通に混乱を来したこの日の警察の厳重な検問に対して批判の声が上がったほか、社会党の木原実らは「警察側の実力行使は完全に警察権行使の行き過ぎ」などとして千葉県警警備本部長の免職要求を出す意向を示す。今井栄文空港公団総裁は「反対派農民とも会って説得したい」「新空港をベトナムと結び付ける全学連の論法は根拠がなく成田市民に迷惑をかけているのは残念」とコメント。 なお、佐藤首相は「成田空港は統一(反対派と三派学生)デモ。警官隊もこれに備へ、昨日の王子病院反対デモに続いで〔ママ〕の多数の逮捕者を見る。学生のこの暴挙はなんとしてもおさめなくてはならない。逮捕で対抗する以外に手はない」と日記に綴っている。 また、この集会に附随してTBS成田事件が発生し、過激派に手を貸した形となった東京放送(TBS)は、政権与党などから激しく糾弾された。
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