竹鉄砲事件とは? わかりやすく解説

竹鉄砲事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 01:00 UTC 版)

人吉藩」の記事における「竹鉄砲事件」の解説

竹鉄砲事件(たけでっぽうじけん)は、8代藩主頼央が鉄砲により暗殺され事件である。別名、御手判事件とも呼ばれる。元々相良家記録にはなく、秘匿されていた事件であるが、渋谷五郎相良家近世文書整理中に偶然発見し判明した発端7代頼峯の宝暦5年1755年)に領内襲った大水害である。藩は当時すでに財政逼迫していたが、この大水害により藩士の生活は壊滅的な打撃受けた。翌宝暦6年1756年)、藩士救済策として、家老万江長右衛門らの大衆議派が希望者に対し御手判銀の貸し付け触れ出した。しかしこの貸付は、その借りに応じて家禄を渡す分を差し引くというものであり、100取り上の上給者らは、その返済方式では実質的に知行削減となり藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱え門葉方に訴え出た実際、上給者で借り受け請う者は無く万江一同謹慎に及ぶ。一方相良頼母(後の頼央)ら門葉は、この一件江戸の頼峯への報告する際、速やかに処分すべく万江切腹にし、他の者を逼塞すべしとの密書送っている(万江らは処分されず、謹慎解かれ模様)。 宝暦7年1757年)、藩主・頼峯は、帰国に際して従前どおり門葉(実は弟)の相良頼母仮養子にしようとした頼母門葉中心的人物であったため、家老万江らはこれに反対し、連判状提出するいたった。しかし頼峯は、強硬な反対押し切って頼母仮養子として帰国した。ところが、頼峯を毒殺し頼母擁立企てがあるという遺書残して藩医右田立哲が自殺するという事件が起こった。頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰した宝暦8年1758年)、頼峯は江戸参府途上発病し江戸到着死去した死去により頼母出府し、8代藩主・頼央となった。翌宝暦9年1759年6月帰国した頼央は、その2ヶ月後に急死する相良家記録では、閏7月体調崩し薩摩瀬別邸療養していたが、病状悪化し死亡したとされている。 しかし言い伝えによれば薩摩瀬別邸滞在中の閏7月鉄砲により狙撃され8月至り死亡したという。藩は、銃声子供竹鉄砲爆竹)であると誤魔化し調査求め訴え取り上げなかったという。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主抹殺謀ったものと言われている。 また、これにより藩主相良家血統断絶し以後10年間、他家から晃長、頼完、福将、長寛の4人を相次いで継嗣迎え入れるという不安定な家督相続続け内密藩主すり替え行っている)、なんとかお家断絶危機切り抜けていった。

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