竹鉄砲事件
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竹鉄砲事件(たけでっぽうじけん)は、8代藩主頼央が鉄砲により暗殺された事件である。別名、御手判銀事件とも呼ばれる。元々相良家の記録にはなく、秘匿されていた事件であるが、渋谷季五郎が相良家近世文書を整理中に偶然発見し判明した。 発端は7代頼峯の宝暦5年(1755年)に領内を襲った大水害である。藩は当時すでに財政が逼迫していたが、この大水害により藩士の生活は壊滅的な打撃を受けた。翌宝暦6年(1756年)、藩士救済策として、家老・万江長右衛門らの大衆議派が希望者に対し御手判銀の貸し付けの触れを出した。しかしこの貸付は、その借り高に応じて家禄を渡す分を差し引くというものであり、100石取り以上の上給者らは、その返済方式では実質的に知行の削減となり藩士が一層貧困に喘ぐとして異を唱え、門葉方に訴え出た。実際、上給者で借り受けを請う者は無く、万江ら一同は謹慎に及ぶ。一方、相良頼母(後の頼央)ら門葉は、この一件を江戸の頼峯への報告する際、速やかに処分すべく万江を切腹にし、他の者を逼塞すべしとの密書を送っている(万江らは処分されず、謹慎も解かれた模様)。 宝暦7年(1757年)、藩主・頼峯は、帰国に際して従前どおり門葉(実は弟)の相良頼母を仮養子にしようとした。頼母は門葉の中心的人物であったため、家老・万江らはこれに反対し、連判状を提出するにいたった。しかし頼峯は、強硬な反対を押し切って頼母を仮養子として帰国した。ところが、頼峯を毒殺し頼母の擁立を企てがあるという遺書を残して、藩医・右田立哲が自殺するという事件が起こった。頼峯は吟味のうえ小衆議派を処罰した。 宝暦8年(1758年)、頼峯は江戸参府の途上発病し、江戸到着後死去した。死去により頼母が出府し、8代藩主・頼央となった。翌宝暦9年(1759年)6月に帰国した頼央は、その2ヶ月後に急死する。相良家の記録では、閏7月に体調を崩し薩摩瀬の別邸で療養していたが、病状が悪化し死亡したとされている。 しかし言い伝えによれば、薩摩瀬の別邸に滞在中の閏7月、鉄砲により狙撃され8月に至り死亡したという。藩は、銃声を子供の竹鉄砲(爆竹)であると誤魔化し、調査を求める訴えを取り上げなかったという。大衆議派と小衆議派が対立する中、小衆議派の中心人物であった藩主の抹殺を謀ったものと言われている。 また、これにより藩主相良家の血統は断絶し、以後約10年間、他家から晃長、頼完、福将、長寛の4人を相次いで継嗣に迎え入れるという不安定な家督相続を続け(内密の藩主すり替えも行っている)、なんとかお家断絶の危機を切り抜けていった。
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