竹雲以後の学舎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 08:16 UTC 版)
格知学舎の教育は竹雲以後も1946年(昭和21年)まで続き、太平洋戦争終戦時まで村山地方の子弟を中心に総勢182名が入門した。 そのうち明治10年(1877年)までの入門者が約3分の1をしめるが、その後も10年ごとに20名前後の入門者がみられた。竹雲以下3代の塾頭はいずれも礼儀と信仰を重んじ、反欧化思想を体現するチョンマゲと和服姿を貫いた。入門者の出身地は、学舎の所在する東村山郡が多かったが、米沢や新庄からの入門者もいた。社会的な階層をみてみると、初期は大地主層が多かったが、それが徐々に減ってゆき、やがてほとんどが自作農専業者だけになっていった。 なお、格知学舎は大正5年(1916年)には『梅檀余芳 末』を編纂、刊行に至っている。
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