秀英体
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 11:58 UTC 版)
過去には活字供給を手掛け、その書体は前身・秀英舎の名から秀英体(秀英型)と呼ばれる。活字の二大潮流として東京築地活版製造所による築地体と並び称され、ポイント制活字、ベントン母型といった変革を経て、写植書体やビットマップフォント、アウトラインフォント、OpenTypeフォントとして覆刻・改刻され、使用され続けている。 秀英舎の創業当時、印刷局と築地活版から活字を購入していたが、1881年(明治14年)、保田久成の創案のもと、字母(父型)を購入し活字の自家鋳造を開始、さらに1882年(明治15年)、山下町に製文堂を設置、それを本格化させた。 秀英体という呼称には製文堂が整備した号数活字の書体に加えてポイント活字として新規開発された数種の書体、戦後ベントン向けに開発された書体の二種が該当する。前者は、さらに初から四、六号の系と五号の系とに分類でき、前者は製文堂で開発された書体、後者は築地活版の明治10年代から20年代の五号活字をうけ、印刷局のかなを混合するなどして調整した書体であった。 父型の開発を始めたのが1890年代半ばであった。まず四号の開発から始まり、明治30年中葉に大体の完成を見せるが、開発は大正にまで及んだ。五号以外の初号から六号は、築地活版の活字をうけつつも、自社独自の風の書体であった。五号の系は1902年(明治35年)ごろ、新活字に改まった。 号数活字はサイズごとに書体が全て異なっていた。また二号から六号までには太かながあった。秀英舎の活字書体は、明朝体のラインナップがよく知られるが、そのほかにも、電気版などの図版、罫、ゴシックや隷行草などから髭文字などの雑書体の開発もなされていた。電気版は日露戦争の号外などで用いられ、雑書体は明治後期から第二次世界大戦前まで盛んに開発されていた。 明治終期に築地活版がポイント活字を提唱したのをうけ、ポイント活字の開発を行った同社は、外注などで号数を相当するサイズにほぼそのまま鋳込んだほかに、新設のサイズに書体を新しく作った。1948年(昭和23年)から60年後半に、四号・13ポイント活字を基にA1書体と呼ばれるベントンやパンチなどの機械式活字母型彫刻機向けの本文書体が新作された。 写植書体として、写研から初号活字を覆刻した「秀英明朝 (SHM)」が発売されたほか(1981年〈昭和56年〉)、モリサワから「秀英3号」、「秀英5号」のファミリーが発売された(モリサワの書体はコンピュータ・フォントとしても発売されている)。戦後のベントン書体は大日本印刷の印刷物に幅広く用いられ、大日本で印刷を続けていた印刷物を電子化する際に書体も大日本のものを合わせた。慣れた書体を使いたいという要望から電子書籍のソフトウェアに搭載したりするなどの展開が見られる。またディスプレイ向けに低解像度用の書体も開発されている。 2007年(平成19年)に「平成の大改刻」と称して、本文用の明朝3書体のリニューアル、見出し用書体「秀英初号明朝」のデジタル化に取り組んだ。2009年(平成21年)に「秀英明朝L」をモリサワから発売して以降、秀英体ファミリーが順次発売された。現在はモリサワの他に、フォントワークス、Adobe Fonts、Monotype社MyFontsからも提供・販売されている。
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