秀衡の死と遺言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:08 UTC 版)
文治3年(1187年)10月29日、秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続する。父秀衡は死の直前、源頼朝との対立に備え、平氏滅亡後に頼朝と対立し平泉へ逃れて秀衡に庇護されていた頼朝の弟源義経を大将軍として国務せしめよと遺言して没した。 『玉葉』(文治4年正月9日条)によると、秀衡は国衡・泰衡兄弟の融和を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つことになる藤原基成の娘を娶らせることで国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。
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