秀衡 対 頼朝とは? わかりやすく解説

秀衡 対 頼朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 21:41 UTC 版)

藤原秀衡」の記事における「秀衡 対 頼朝」の解説

しかし文治2年1186年)、平家滅ぼして勢力拡大してきた鎌倉頼朝は「陸奥から都に上すると金自分仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけてくる。源氏仲介なしで、直接京都交渉してきた奥州藤原氏にとっては無礼な申し出であり、秀衡を頼朝下位位置づけるものであった。秀衡は直ち鎌倉衝突することは避け、馬と金鎌倉届けた頼朝言い分忠実に実行する一方で、もはや鎌倉との衝突避けられない考えた秀衡は文治3年1187年2月10日頼朝対立して追われ義経を、頼朝との関係が悪化することを覚悟受け容れる文治3年1187年4月鎌倉ではまだ義経行方を占う祈祷が行われている頃、頼朝朝廷通して以下の三事について秀衡に要請してくる。 鹿ケ谷の陰謀平清盛によって奥州流されていた院近臣中原基兼が、秀衡に無理に引き留められ嘆いているので、京へ帰すべきであること 陸奥からの貢金が年々減っており、東大寺再建鍍金多く必要なので三万両納めること 度々追討等の間、殊功なきこと 等である。 秀衡は、 基兼については大変同情をもっており、帰さないではなく本人帰りたがらないのであり、その意志尊重しているだけである。まったく拘束しているのではない。 貢金については三万両甚だ過分であり、先例広く定められているのも千両に過ぎない。特に近年商人多く境内入り砂金売買して大概掘り尽くしているので、求めには応じられない返答している。頼朝は秀衡が院宣を重んぜず、殊に恐れ気配がなく、件の要請承諾しないのはすこぶる奇怪であるとして、さらに圧力をかけることを要請している(『玉葉文治3年9月29日条)。9月4日義経が秀衡の下にいることを確信した頼朝から「秀衡入道が前伊予守義経)を扶持して、反逆企てている」という訴えにより、院庁下文陸奥国出された。秀衡は異心がないと弁明しているが、この時頼朝送った雑色陸奥国派遣されており、「すでに反逆用意あるようだ」と報告しており、朝廷にも奥州情勢言上している。 このわずか2ヶ月後義経平泉入りして9ヶ月後の文治3年1187年10月29日、秀衡は死去する

※この「秀衡 対 頼朝」の解説は、「藤原秀衡」の解説の一部です。
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