石油危機からバブル経済
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:10 UTC 版)
「日本債券信用銀行」の記事における「石油危機からバブル経済」の解説
“不動産銀行”という行名が体を表すように不動産融資に注力するが、もともと長信銀として最後発で存立基盤が弱く、また不動産融資が主力業務であるために、日本列島改造論後の不動産不況で多額の不良債権を作り出し、早くも1970年代後半には経営不安がささやかれるようになる。 その前身から民族系企業や韓国外換銀行などとの取引が多く、不動産取引を通じて“闇社会”との接点をもち、韓国外換銀から60億円の支払い保証を取り付けて、町井久之が社長だった東亜相互企業に54億円を貸し付け、同社がTSK・CCCターミナルビル等を建設した件は1971年に国会でも取り上げられるなど、ダーティーイメージを想起させる金融機関であった。 1973年の第1次石油危機に伴う不況の最中には、長期経営計画を見直し経営の効率化を進め、1977年10月には創立20周年を機に、行名を株式会社日本債券信用銀行に変更、不動産担保金融より債券発行銀行としての路線転換を強調する狙いも込めた。 1980年代になると、組織改革のほか行内情報処理体制の構築などを積極的に行い、銀行法の改正などによる金融自由化、国際化の進展などへの長期的対応を図った。1982年には長期経営計画「PROJECT30」(5ヵ年)を策定。1985年には環境変化の早さに対応するため、融資・債券・証券・国際業務などあらゆる機能を活用した「総合営業」を推進した。特に国際業務面では、全業務の国際化と海外営業力の強化が図り、海外支店・駐在員事務所拡充の他、ロンドン・オーストラリア・スイス・ドイツなどに現地法人を設けた。また、新たに認められた公共債の窓口販売、ディーリング業務についても債券発行銀行としてのノウハウを生かして当初から積極的に取り組んだほか、1987年以降は、自己資本の充実、ALMなどによる財務・収益構造の改善に努めた。 そうした中、トップに就いた勝田の腹心である頴川史郎は闇社会とのつきあいを深め、「暴力団相手だろうが、無担保だろうが、貸して・貸して・貸しまくれ」、「千代田(日債銀破綻の原因の一つとなる系列ノンバンク・千代田ファイナンス、後の日本トータルファイナンス)を見習え。たった2年間で融資残高を1,000億円から4,000億円に増やしている」と積極融資の大号令をかけていたと言われ、結果としてバブル崩壊後に膨大な不良債権を作り上げることになる。
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