県立図書館と戦中の焼失
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「宮城県図書館」の記事における「県立図書館と戦中の焼失」の解説
1907年(明治40年)4月、図書館令に基づき宮城書籍館は宮城県立図書館へと名を変えた。1909年(明治42年)には巡回文庫が誕生した。この年は加美郡、牡鹿郡、本吉郡、遠田郡だけの巡回だったが、翌年からは宮城県内の全ての郡を回るようになった。この間、利用者数と蔵書数は伸び、1882年(明治15年)に利用者数7567人、蔵書数1万8465冊だったのが、1911年(明治44年)には利用者数5万6403人、蔵書6万8233冊となった。 宮城県立図書館への改名とあわせて、建物の改築が検討され始めた。しかし、資産家の斎藤善右衛門による多額の寄付があったことから、新築が行われることになった。民間からの6万6000円余りの寄付を受けて新館の建設が始まり、この間、宮城県立図書館は県会議事堂や医学専門学校講堂を仮館として業務を続けた。そして1912年(大正元年)、現在の勾当台公園南辺に当たる場所(北緯38度15分59.1秒 東経140度52分16.7秒 / 北緯38.266417度 東経140.871306度 / 38.266417; 140.871306 (第3代(1912年~1945年)))に新館が落成して、この年の12月から供用を開始した。新築された本館は25室を備える木造2階建てで、242席の閲覧席があった。書庫は赤レンガ造りの3階建てだった。 大正から昭和にかけて、宮城県立図書館は様々な図書館活動を行った。巡回文庫がさらに展開され、理髪店や工場に図書を貸し出す理髪店文庫と工場文庫が行われるようになった。理髪店文庫は、仙台市内の理髪店10店舗にそれぞれ10冊から20冊を1箇月、貸し出すというもので、近所の労働者や学生がこれらを店で読んだり、あるいは借りた。工場文庫の活動としては、片倉製糸紡績の仙台製糸所へ100冊以上の図書が貸し出された。また、青少年読書会を奨励したり、小学生童話会を組織したりもした。さらに図書活動に加えて、展覧会や講演会、座談会を企画するなど図書館の活動が多角化した。 この頃は蔵書が充実していった時期でもあった。宮城郡原町の旧家庄司惣松から寄贈された『封内名蹟志』の原本を含む約2400冊が甘柿舎文庫となり、また漢学者今泉寅四郎(篁洲)の遺族から寄贈された1000冊余りの図書は今泉篁洲文庫となった。なお、この間、宮城県立図書館は1919年(大正8年)11月に宮城県図書館に改称した。 太平洋戦争が勃発して本土空襲の危機が迫ると、1944年(昭和19年)頃より貴重な図書の疎開が行われるようになった。疎開先は宮城郡広瀬村上愛子および大沢村芋沢の旧家が選ばれた。しかし、疎開が完了する前の1945年(昭和20年)7月10日に仙台空襲があり、運び出されなかった図書がこれによって建物もろとも焼き払われた。疎開により難を逃れた図書は、青柳文庫や今泉篁洲文庫、養賢堂関連の蔵書など約1万冊だった。
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