相撲協会理事長就任
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1968年3月場所を最後に佐田の山晋松が引退すると、出羽海の名跡を譲って武蔵川(こちらの「蔵」は現在の字)に戻した。また、同年12月16日に時津風理事長が死去すると、死去翌日に後任の理事長に就任した。理事長就任後は日本相撲協会の近代化に尽くし、1969年5月場所から勝負判定の参考としてビデオ映像の導入を決断したほか、1971年には蔵前国技館改装の竣工にこぎ着けた。また、文部省から中学生力士の学校欠席問題が指摘されたのを機に中学校卒業前の入門を禁止し、義務教育を終了させることを最優先とした。 この時期の日本相撲協会は土俵の内外で大きな動きが相次ぎ、本場所では大鵬幸喜の現役引退、玉の海正洋の横綱昇進と急逝を経て、元弟子・北の富士勝昭、琴櫻傑將の横綱昇進、そして輪島大士・北の湖敏満の台頭を導いたほか、1972年には外国(ハワイ州出身)力士である高見山大五郎が幕内最高優勝を果たした。海外公演も、1973年には前年の国交回復を受けて中華人民共和国公演(北京市と上海市)を実現させ、大相撲の国際化を推進した。このような矢継ぎ早の行動による大相撲の活性化が、後の両国国技館建設につながる大相撲人気の隆盛の礎となる。 一方で、相撲茶屋を経営する市川家と養子縁組を行った関係上、相撲茶屋問題の改革には消極的で、この点では時津風と正反対の方針を取ったと言える。この点に関しては武蔵川理事長の汚点として後年まで伝わり、自身と養子縁組を行った佐田の山晋松も、後に就任する理事長時代に年寄株改革を提言した時は、相撲茶屋による既得権益で退職後の生活が保障されている点を角界内部、マスコミ、好角家などから難詰された。 1974年に理事長を春日野へ譲り、自身は相談役となった。同年2月28日付で停年を迎えた後も引き続き相談役を務め、1976年1月に日本相撲協会を退職した。同年2月からは日本相撲協会嘱託として相撲博物館館長を務め、1987年5月30日に死去、78歳没。死去後、日本相撲協会は功績を称えて同年6月2日に協会葬を行い、同年6月9日に正五位勲三等瑞宝章が追贈された。
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