直接的動機について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 08:59 UTC 版)
原因として、フロイトに関係する精神分析の解釈が用いられることもあるが、現在はさほど有力視されていない。精神分析学的自我心理学に関係する解釈によると、自傷行為は幼少期(1〜3歳前後)の頃の母親との分離不安が原因となり、自己存在の確認の一時的な手段として用いられると主張される。この説は精神分析学的に手首は乳房に触れていたのだから母親との意思疎通を図っているのだろうとされていたために起こったものである。この説に基づけば、自傷行為は母親など他人との意思疎通の一種であると考えられる。しかしまず、手首が母親との意思疎通を表すならレッグカットなどをする時点でこの説は不備が多い。さらに、実際に意思疎通能力を高めても、何人かについては成功を収めたものの、多くの患者は自傷行為を続けたのである。このため、研究者たちは自傷行為にはより複雑な原因があると判断し、異なる原因があるだろうという論が現在有力である。いずれにせよ人によってその背景が異なる事を十分認識しておかなくてはならない。 自傷行為の場合解離する場合と解離しない場合があることが知られる。多くはその二つを使い分けているようである。代表的な動機を以下に述べるが、どれであるかははっきり区分できない。だが、解離が進んでいればいるほど重症なケースが多い。 周囲の目や気を引こうとして行う 周囲に心配されない、見てもらえないといった見捨てられ感を打破したいがために、わざと人目を引く傷をつけ心配してもらいたい、という欲求を満たすために行う。わざととはいっても、この動機は無意識的なものであり、本人ははっきりとは理解していない。解離性の自傷行為とはほぼ対極に位置するもので、この場合傷口を当初から隠そうとせず見せびらかすケースがほとんどである。 儀式として行う 恋人や家族などを事故で失った場合に行う。この場合、自傷行為は、本人なりの葬儀のあり方であるとされる。家族や恋人との接点が薄い場合、墓参りに行こうとしても行けず、自分の手首や腕を切って血を流すことで、恋人や家族の死の葬儀の儀式として行うとされる。この場合、仕事や個人的な事情などで当初は悲しむ余裕すらなかった場合が多く、一年後など後になって起こることが多いとされる。 聖書中では宗教上の儀式としての自傷行為が描写されている箇所がある。 自己を認識するための手段 自分という存在の輪郭を再確認し、自己解体感を抑える際に行う。これは周囲に対して見捨てられ感を抱いた場合、「自分という存在はこの世界に必要ないのかもしれない」といった考えを否定するためである。また、虐待を受けたことなどで、自分の存在をその苦痛に投影するケースもこれに当たる。痛み、流れる血などを見て自己の生命を再確認し、安心できることから行われる。 痛みによって助けを求めるための手段 自分が非常に危険な状況に陥った時に、痛み自体に救いを求める際に行う。これは自殺を模倣することで、自分自身の自殺したい願望を抑えるためともいわれる。例えば、仕事上の失敗などで「もうこんな現実から逃げたい」と思っているにもかかわらず死ぬことがためらわれる場合などが、これに当たる。 攻撃衝動を自分に向ける 自身の攻撃衝動を外に向けることができない者(女性に多い)が、その衝動を内に向けるときに行う。例えば「親や周囲の人間に愛されない自分の存在が許せない」と認識した場合に行うのがこれである。またこれは、自分を理解しない周囲に対する怒りをもったときに、手首などをそれらの周囲に見立てて人格化し、攻撃しているとも解釈できる。 現実逃避の手段 何か非常に困難な事象にぶつかった場合、自分を切ることによってその現実に一時的に対処する際に用いる。例えば、両親の不和や自分に対する虐待などで「親を愛することができない自分なんかいらない」と自身が認識した場合や、自分のことが原因で友情にひびが入った場合「自分なんかいなければよかった」と思ってしまうケースなどがこれに当たる。この場合、罰せられることによって「許し」を乞うているとも考えられる。しかしながら、それによって本当に許しが得られるわけでもなく、常習化が進んでしまうとされる。 自分を他人にする手段 自分がしていることを他人の目で見ることによって自分自身を乖離させる手段として用いる。自分で自分を切りつけ、葛藤している通常の自分を信じられない自分にすることによって、自身を他人のようにみなし、その自身を否定し、そうしていないもう一人の自分を認識することによって、葛藤ごと葛藤している自分自身を否定し、精神の安定を得るのである。 自分自身の存在をなくする手段 過去の体験や記憶を自分の中から失わせる手段として用いる。本人の中で「親殺し」の葛藤が起こることもある。その状況は「真っ白」とも表現される。これは、自分自身の精神的な痛みを、肉体的な痛みによって超越させ、それによって思考を破壊し、自己を内へと退行させている。つまり、自分自身の肉体的な痛み以外に自分を精神的に守ってくれる存在がいないと感じている。
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