白山信仰との関連
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大野湊神社の祭神と白山比咩神社の祭神は重ならないが、加賀馬場白山宮の有力末社となっていた時期がある(『白山之記』)。 現在、境内末社として佐那武白山神社を祀るのは、その名残りである。「加賀諸神社縁起」の佐那武白山社縁起に以下の記述がある。 佐那武白山権現は白山比咩神社九所の小社の一社にて、往古は白山本宮の摂社なりといひ伝たり。其頃は佐那武白山の衆徒とて社僧多く居たりき。本地仏は佐那武の観音堂と称し、其地を寺中と呼ひて寺院共多く、今其遺跡を寺中村と称せり。本地観音の堂宇ありし地をは今観音堂村と呼へり。其いにしへは佐那武白山の社人・社僧夥多しく此地辺に居たりしかと、長享[1487-1488]以来の国乱に神人・社僧も悉く離散して社殿・堂宇は兵火に罹り、神宝・仏体は僅に取り除け残れるを、・・・ また、白山七社の中宮三社として、中宮、別宮、そして佐羅(良)宮がある。この佐羅(良)宮は、現在の白山市佐良の佐羅早松神社である。平安末期成立と言われる『白山之記』には、佐羅(良)宮は以下のように記載されている。 [此より佐羅宮の分なり] 又一の宝社あり。 佐羅大明神と名く。 本地は不動明王なり。 天元五年(壬午)始て宝殿を造る。 小社(普賢文殊)は早松・並松(米持金剛童子なり)なり。 台子の滝六所の御子あり。 本仏は大日如来なり。 長保元年(己亥)(二宇あり。五間二面なり。講堂一宇これを造り始む)。又一社あり。 六所堂と名く。 二宇は温屋なり。又一社あり。 境明神と名く。 小豆沢は平岩なり。 同じ佐羅宮は、別書『加賀白山伝記之事』には以下のように佐良の宮として記載されている。 第六勝佐良の宮と申奉るは、本地は聖観音、垂跡は地神第五鸕鷀草葺不合の尊となり。 南北朝から室町時代にかけて成立した義経記『愛発山のこと』に、関連する伝承がある。 弁慶、「・・・此のをあら血の山と申す事は、加賀の国に下白山(しもしらやま)と申すに、女体后の、龍宮の宮とて御座しましけるが、志賀の都にして、唐崎の明神に見え初められ参らせ給ひて、年月を送り給ひける程に、懐妊既に其の月近くなり給ひしかば、同じくは我が国にて誕生あるべしとて、加賀の国へ下り給ひける程に、此の山の禅定[=頂上]にて、俄に御腹の気付き給ひけるを、明神「御産近づきたるにこそ」とて、御腰を抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてんげり。其の時産のあら血をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へ。さてこそあらしいの山、あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて笑ひ給ひけり。 この生まれた子は佐羅皇子であるといい、佐羅早松神社との関係を示唆する。同時に、佐羅と佐那/佐良が通じることから、白山比咩神社と大野湊神社との関連をも示唆する可能性がある。大野湊神社に合祀される佐那武社は白山本宮の末社であり、その姫神と唐崎明神の子の佐羅皇子が佐那武=猿田彦として佐良嶽に祀られてた、という解釈が可能である。なお、この説に従えば、宮腰という地名は、白山の麓の宮(あるいは佐良嶽の麓の宮)と解釈できる。これは、古語の「腰」は山裾の意味を持つためである。
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