白山信仰との関連とは? わかりやすく解説

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白山信仰との関連

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 02:12 UTC 版)

大野湊神社」の記事における「白山信仰との関連」の解説

大野湊神社祭神白山比咩神社祭神重ならないが、加賀馬場白山宮の有力末社となっていた時期がある(『白山之記』)。 現在、境内末社として佐那武白山神社祀るのは、その名残りである。「加賀諸神社縁起」の佐那武白社縁起に以下の記述がある。 佐那武白権現白山比咩神社九所の小社一社にて、往古白山本宮摂社なりといひ伝たり。其頃は佐那武白山の衆徒とて社僧多く居たりき。本地仏佐那武の観音堂称し、其地を寺中と呼ひて寺院多く、今其遺跡寺中称せり。本地観音堂宇ありし地をは今観音堂と呼へり。其いにしへ佐那武白山の社人社僧夥多しく此地辺に居たりしかと、長享[1487-1488]以来国乱神人社僧悉く離散して社殿堂宇兵火罹り神宝仏体は僅に取り除け残れるを、・・・ また、白山七社中宮三社として、中宮別宮、そして佐羅(良)宮がある。この佐羅(良)宮は、現在の白山市佐良の佐羅早松神社である。平安末期成立と言われる白山之記』には、佐羅(良)宮は以下のように記載されている。 [此より佐羅宮の分なり] 又一の宝社あり。 佐羅大明神と名く。 本地不動明王なり。 天元五年(壬午)始て宝殿造る小社普賢文殊)は早松・並米持金剛童子なり)なり。 台子の滝六所御子あり。 本仏大日如来なり。 長保元年己亥)(二宇あり。五間二面なり。講堂一宇これを造り始む)。又一社あり。 六所堂と名く。 二宇は温屋なり。又一社あり。 境明神と名く。 小豆沢平岩なり。 同じ佐羅宮は、別書加賀白山伝記之事』には以下のように佐良の宮として記載されている。 第六佐良の宮と申奉るは、本地聖観音、垂跡は地神第五鸕鷀草葺不合の尊となり。 南北朝から室町時代にかけて成立した義経記愛発山のこと』に、関連する伝承がある。 弁慶、「・・・此のをあら血の山と申す事は、加賀の国下白山(しもしらやま)と申すに、女体后の、龍宮の宮とて御座しましけるが、志賀の都にして、唐崎明神見え初められ参らせ給ひて、年月送り給ひける程に懐妊既に其の近くなり給ひしかば、同じくは我が国にて誕生あるべしとて、加賀の国下り給ひける程に此の山の禅定[=頂上]にて、俄に御腹の気付き給ひけるを、明神御産近づきたるにこそ」とて、御腰抱き参らせ給ひたりければ、即ち御産なりてんげり。其の時産のあら血をこぼさせ給ひけるによりて、あら血の山とは申し候へさてこそあらしいの山、あら血の山の謂れ知られ候へ」と申しければ、判官、「義経もかくこそ知りたれ」とて笑ひ給ひけり。 この生まれた子は佐羅皇子であるといい、佐羅早松神社との関係を示唆する同時に、佐羅と佐那佐良通じることから、白山比咩神社大野湊神社との関連をも示唆する可能性がある。大野湊神社合祀される佐那武社は白山本宮末社であり、その姫神唐崎明神の子の佐羅皇子佐那武=猿田彦として佐良嶽祀られてた、という解釈が可能である。なお、この説に従えば宮腰という地名は、白山の麓の宮(あるいは佐良嶽の麓の宮)と解釈できる。これは、古語の「腰」は山裾の意味を持つためである。

※この「白山信仰との関連」の解説は、「大野湊神社」の解説の一部です。
「白山信仰との関連」を含む「大野湊神社」の記事については、「大野湊神社」の概要を参照ください。

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