発電施設の完成
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1988年(昭和63年)のふるさと創生事業をきっかけに、再び風による町おこしの機運が高まった。1991年4月、舘林茂樹町長のもと「立川町風車村推進委員会」が発足し「立川町 NEW WINDY TOWN 風車村構想」が開始される。町の小高い公園に風車を設置することとし、当初は過去の失敗の経緯から観光用を主目的にしたオランダ型の風車とする案だったが、現地を視察した清水幸丸(三重大教授)や牛山泉(足利工大教授)ら国内の風力発電研究の第一人者による助言、風車技術の進歩、同年10月にオランダで開催されたヨーロッパ風力エネルギー協会(英語版)の会合に町からも出席してオランダやドイツの発電用風車を実際に目にしたことで、実用的な風力発電を目指すこととなる。同構想では、風にこだわった地域づくり、町おこしを推進するともに、町による環境問題への取り組みへのPRが謳われている。 この当時、自治体としては北海道寿都町などが小規模な風車を導入していた程度で、国内での本格的な発電用風車は電力会社の研究施設にしかない状況だった。立川町は再生可能エネルギーとしての風力発電の先進性を実証するため、1993年(平成5年)にアメリカのU.S.ウィンドパワー社製風力発電機「USW56-100」(風車直径18メートル、出力100kw)3基を導入。一般家庭の年間約60世帯分の電気使用量をまかない、当時の日本の自治体では最大級の風力発電施設で、立川町は全国に先駆けた風力発電導入の事例となった。この風車は以後「シンボル風車」と位置付けられ、逆潮流を伴う系統連系を用いた進歩的な方式はマスメディアにも取り上げられ反響を呼んだ(老朽化とメンテナンスコストの関係から2007年に運用停止。現在は撤去済)。風車の選定にあたって当初は複数の国内メーカーに打診を行ったものの、当時の日本で風力発電機は開発の黎明期で生産体制が整っておらず、すげなく断られるか、数億円もの高額な見積を提示される状況だったため、諸経費を勘案しても価格面で見合いかつ高性能なアメリカ製を輸入することに決定した経緯がある。発電用風車の輸入は当時前例がなく、国は安全性などを盾に難色を示したが、町は国に対して数か月に及ぶ粘り強い交渉を行い、最終的に安全性については町が全責任を負うことを条件に輸入許可を取り付けるに至った。総事業費は1基約3000万円の風車3基に加え、近隣施設の電力として使うための送電線や変電設備等を含む2億4000万円となり、ふるさと創生事業の予算1億円を大きく超過することとなった。 風力発電を行うにあたり、ネックとなったのは余剰電力の消費先であった。風力発電機本体の購入経費はふるさと創生事業の予算で賄えるものの、配電設備等へ投じる1億円超の追加拠出は、余剰電力を電力会社へ売却することで埋め合わせる必要があった。しかし当時の法制度では風力発電により生じた電力は自家発電とみなされ自家使用しかできず、なおかつ自治体による電力の売却は認められていないという状況だった。このため発電機の導入に先駆け、余剰電力の買い取り制度の導入を目指して町長の舘林をはじめ町職員が東北通産局など関係機関との折衝を重ねていた。「売電」という当時前例なき交渉は難航したものの、1992年4月に自然エネルギーによる自家発電の電力余剰分を電力会社が買い取る制度が定められ、立川町が風力発電における最初の適用例となった。
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