異説・伝説とは? わかりやすく解説

異説・伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 04:38 UTC 版)

島清興」の記事における「異説・伝説」の解説

慶長5年1600年)、徳川家康危険に感じた左近三成家康暗殺計画持ちかけた。これに対して三成もすでに家康暗殺近江水口岡山城主の長束正家計画しており、正家会津征伐東下する家康をもてなさせ、水口城内で家康斬るという作戦であった家康はこの企て知っており、その夜の内に水口出立したため、計画失敗終わった(『徳川実紀』)。 関ヶ原開戦直前島津豊久に対して、「若い頃武田信玄仕官し山県昌景の下で家康敗走するのを追った」と語ったという(『天元実記』)。が、島氏は大和国在地土豪筒井氏長年仕えており、裏付けとなる資料も他にないので、真偽不明関ヶ原の戦い脱して落ち延び京都潜伏し寛永9年1632年)に没したとする説もある(『石田軍記』、『古今武家衰退記』、『関ヶ原合戦当日記』、『新対馬島誌』、『関ヶ原町史』)。 左近遺体は、関ヶ原の合戦戦死した大谷吉継首級と共につかっていない。さらには合戦後京都左近目撃した称する者が相次いだという。 京都市立本寺には島清興の墓があり、関ヶ原の戦い後逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている。位牌過去帳塔頭残され寛寛9年6月26日 (旧暦)没などと記されていることがその根拠となっている。 静岡県浜松市天竜区島家後裔在住している。23代目島茂雄によれば島清興は島金八と名を変えて百姓変装し春になる自身部下集めての下で酒宴催したという。また居住地を「おさか」と呼んだといわれており、これは大坂のことと推察されている。隆慶一郎はこの地を訪問して島茂雄から話を聞き小説影武者徳川家康」の題材とした。 東広島市西条最古酒造業者白牡丹自社創業関し古書において「慶長五年九月 関ガ原の戦に、島左近勝猛、西軍謀士の長たりしも、戦に破れ長男新吉戦死す。次男太郎忠正母と共に京都在りしが、関ヶ原悲報聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」とある旨を紹介しており、現在も同社社長職は島家引き継いでいる。 熊本市西岸寺には、中興の泰岩和尚島左近鎌倉光明寺出家した後身であり、細川忠興仕えて小倉知足寺建立し加藤忠広改易後細川忠利肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本入り情報収集努めたという由来記が残る。 滋賀県伊香郡余呉町奥川並には関ヶ原合戦後も左近生き延び同村潜伏していたという伝承がある。

※この「異説・伝説」の解説は、「島清興」の解説の一部です。
「異説・伝説」を含む「島清興」の記事については、「島清興」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「異説・伝説」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「異説・伝説」の関連用語

1
2% |||||

異説・伝説のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



異説・伝説のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの島清興 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS