異説・伝説
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慶長5年(1600年)、徳川家康を危険に感じた左近は三成に家康暗殺計画を持ちかけた。これに対して三成もすでに家康暗殺を近江水口岡山城主の長束正家と計画しており、正家に会津征伐で東下する家康をもてなさせ、水口城内で家康を斬るという作戦であった。家康はこの企てを知っており、その夜の内に水口を出立したため、計画は失敗に終わった(『徳川実紀』)。 関ヶ原開戦の直前に島津豊久に対して、「若い頃は武田信玄に仕官し山県昌景の下で家康が敗走するのを追った」と語ったという(『天元実記』)。が、島氏は大和国の在地土豪で筒井氏に長年仕えており、裏付けとなる資料も他にないので、真偽は不明。 関ヶ原の戦いを脱して落ち延び、京都に潜伏し寛永9年(1632年)に没したとする説もある(『石田軍記』、『古今武家衰退記』、『関ヶ原御合戦当日記』、『新対馬島誌』、『関ヶ原町史』)。 左近の遺体は、関ヶ原の合戦で戦死した大谷吉継の首級と共に見つかっていない。さらには合戦後に京都で左近を目撃したと称する者が相次いだという。 京都市の立本寺には島清興の墓があり、関ヶ原の戦い後、逃れてこの寺の僧として、32年後に死去したとされている。位牌や過去帳が塔頭に残され、寛寛永9年6月26日 (旧暦)没などと記されていることがその根拠となっている。 静岡県浜松市天竜区に島家の後裔が在住している。23代目の島茂雄によれば、島清興は島金八と名を変えて百姓に変装し、春になると自身の部下を集めて桜の下で酒宴を催したという。また居住地を「おさか」と呼んだといわれており、これは大坂のことと推察されている。隆慶一郎はこの地を訪問して島茂雄から話を聞き、小説「影武者徳川家康」の題材とした。 東広島市西条最古の酒造業者、白牡丹は自社の創業に関し、古書において「慶長五年九月 関ガ原の戦に、島左近勝猛、西軍の謀士の長たりしも、戦に破れ、長男新吉戦死す。次男彦太郎忠正母と共に京都に在りしが、関ヶ原の悲報を聞き、西走して安芸国西条に足を止む。彦太郎忠正の孫、六郎兵衛晴正、延宝三年酒造業を創む」とある旨を紹介しており、現在も同社の社長職は島家が引き継いでいる。 熊本市の西岸寺には、中興の泰岩和尚は島左近が鎌倉光明寺で出家した後身であり、細川忠興に仕えて小倉に知足寺を建立し、加藤忠広の改易後、細川忠利の肥後入国に際しては、忠利の命を受けて熊本に入り情報収集に努めたという由来記が残る。 滋賀県伊香郡余呉町奥川並には関ヶ原合戦後も左近は生き延び、同村に潜伏していたという伝承がある。
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