生い立ちと福山地所の創業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/03 13:56 UTC 版)
当時の広島県芦品郡有磨村下有地山村(現在の福山市芦田町下有地)に5人兄弟(2男3女)の二男(4番目)として、かつて庄屋を務めた旧家に生まれる。父 新太郎は土建業を営み、比較的裕福な家であった。芦田川の治水事業を多く手がけ、地区の中心的な名家であったが、大正8年7月に備後地方を襲った未曾有の大水害によって、手がけていた芦田川堤防工事、県道の補修工事、城山の砂防工事のすべてが跡形も無く崩壊し大損害をこうむった。またその復旧工事の最中の同年9月、またも大水害が起き甚大な被害をこうむる。請負工事の追加費用は莫大な金額となり、澁谷家は先祖伝来の土地のほとんどを手放すことになった。 古府尋常高小を大正9年に卒業するが、上記の金銭的問題により県立福山中学(現在の広島県立福山誠之館高等学校)への進学を諦め(入学試験は受けており、2位で合格している)、大崎上島の県立商業高校に進む。県立商業高校では航海科を選択し、成績も優秀であったが持病の脱毛症が悪化して苛めにあい、教員の薦めで休学して芦田町に戻ることとなる。禿頭病のため徴兵検査も不合格となった。1924年(大正13年)10月、芦田町で土建業を継承し父の負債も継承する。このため県立商業高校も中退となる。府中市 (広島県)の扇橋は、芦田町在住当時の建設事例である。 1930年(昭和5年)12月26日、11歳年下の女性と結婚(当時、昇は28歳であった)。妻は現在の府中市栗柄の出身であり当時女学生であったが当時の芦田町町長の仲介で婚姻を結んだ。後年渋谷は同町長次男の仲人を引き受けている。 1947年(昭和22年)4月、福山市議会議員に立候補し3位当選するが、1期かぎりで引退。まどろっこしい議論が肌に合わず、辞表出したが受理してもらえず、あまり議会には出席せず欠席率ワースト1であった。 1947年(昭和22年)7月、福山市に「株式会社渋谷組」を設立。 1948年(昭和23年)9月16日、「福山印刷株式会社」を設立。 1966年(昭和41年)5月「株式会社渋谷組」を「福山地所株式会社」と改称したこの頃は不動産業が中心業務となっていた。 1974年(昭和49年)9月、福山駅北口に「福山キャッスルホテル」をオープン。 1976年(昭和51年)、「福山印刷株式会社」を「福山地所株式会社」に吸収合併。 1984年(昭和59年)、福山駅南口に「福山ニューキャッスルホテル」をオープンした。福山通運会長となる。 1990年(平成2年)、福山通運名誉会長職に就任。 1994年(平成6年)6月6日心不全で死去。89歳没。正四位に叙せられる。 渋谷の死後「福山地所株式会社」は、ベッセル株式会社と社名変更している。詳しくはベッセルを参照
※この「生い立ちと福山地所の創業」の解説は、「渋谷昇」の解説の一部です。
「生い立ちと福山地所の創業」を含む「渋谷昇」の記事については、「渋谷昇」の概要を参照ください。
- 生い立ちと福山地所の創業のページへのリンク