生い立ちから青年期 雅邦入門と修善寺での青春―明治後期とは? わかりやすく解説

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生い立ちから青年期 雅邦入門と修善寺での青春―明治後期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:56 UTC 版)

石井林響」の記事における「生い立ちから青年期 雅邦入門と修善寺での青春―明治後期」の解説

千葉県山辺郡土気本郷町大和田現在の千葉市緑区下大和田町)に、父・治郎助、母・げんの三男として生まれる。実家豪農で、隣の家まで1町余り東西南に他人の家見えないほどだったという。2歳の時、母が誤って囲炉裏落ち、頭に火傷を負う。以後これを隠すため生涯総髪で、大人になると髭も蓄えたため、これらが響のトレードマークとなる。土気尋常小学校大網高等小学校旧制千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)と進学中学在学中工部美術学校出身図画教師堀江正章画才認められ進路相談などを受ける。明治33年1900年母の死きっかけ画家となるために上京美術大学受験予備校である共立美術学館で学ぶが中退し國學院大學夜間部へ進む。 当初響は明暗重んじる洋画の方が優れている考えていたが、どうしても親しみ持てなかった。その最中見た同年第9回日本絵画協会第4回日本美術院連合絵画共進会で観た横山大観菱田春草下村観山らの作品感銘を受け、日本画へと進む決意をする。ただし、洋画の方が優れているという考えその後持ち続けたらしく、後年になって趣味油彩画を描くこともあった。観山仲介橋本雅邦入門、雅邦門下結成され二葉会など展覧会積極的に出品し頭角現していく。雅邦は響を自由にさせたため、画風から雅邦の影響見て取るのは難しい。しかし、雅邦を敬慕する気持ち人一倍強く、後に弟子たち報恩塔を建立する際はそのデザイン行い池上本門寺現存)、画室には後年になっても雅邦の肖像報恩塔の原型模型置かれ一礼してから部屋入ったという。明治41年1908年)雅邦が亡くなると、新井旅館主人相原沐芳に気に入られ伊豆修善寺ので1年以上長逗留する。ここで安田靫彦今村紫紅磯田長秋紅児会面々切磋琢磨する。更に伴侶となる茂野きんと出会い妻の実家のあった南品川移り住む

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