生い立ちから青年期 雅邦入門と修善寺での青春―明治後期
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千葉県山辺郡土気本郷町下大和田(現在の千葉市緑区下大和田町)に、父・治郎助、母・げんの三男として生まれる。実家は豪農で、隣の家まで1町余り、東西南に他人の家が見えないほどだったという。2歳の時、母が誤って囲炉裏に落ち、頭に火傷を負う。以後これを隠すため生涯総髪で、大人になると髭も蓄えたため、これらが林響のトレードマークとなる。土気尋常小学校、大網高等小学校、旧制千葉中学校(現:千葉県立千葉中学校・高等学校)と進学。中学在学中、工部美術学校出身の図画教師・堀江正章に画才を認められ、進路の相談などを受ける。明治33年(1900年)母の死をきっかけに画家となるために上京。美術大学受験予備校である共立美術学館で学ぶが中退し、國學院大學夜間部へ進む。 当初、林響は明暗を重んじる洋画の方が優れていると考えていたが、どうしても親しみが持てなかった。その最中に見た同年の第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合絵画共進会で観た横山大観、菱田春草、下村観山らの作品に感銘を受け、日本画へと進む決意をする。ただし、洋画の方が優れているという考えはその後も持ち続けたらしく、後年になっても趣味で油彩画を描くこともあった。観山の仲介で橋本雅邦に入門、雅邦門下で結成された二葉会など展覧会に積極的に出品し頭角を現していく。雅邦は林響を自由にさせたため、画風から雅邦の影響を見て取るのは難しい。しかし、雅邦を敬慕する気持ちは人一倍強く、後に弟子たちが報恩塔を建立する際はそのデザインを行い(池上本門寺に現存)、画室には後年になっても雅邦の肖像と報恩塔の原型模型が置かれ、一礼してから部屋に入ったという。明治41年(1908年)雅邦が亡くなると、新井旅館主人相原沐芳に気に入られ、伊豆修善寺ので1年以上長逗留する。ここで安田靫彦、今村紫紅、磯田長秋ら紅児会の面々と切磋琢磨する。更に伴侶となる茂野きんと出会い、妻の実家のあった南品川へ移り住む。
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