生い立ちから青年期まで
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「デジデリウス・エラスムス」の記事における「生い立ちから青年期まで」の解説
1469年(1466年とか1467年とする説もある)、エラスムスは父ロゲル・ゲラルド (Roger Gerard) と母マルガレータの私生児としてロッテルダムで生まれた。父は高名な司祭、母は医師の娘だった。エラスムスにはピーテルという名の兄がいた。1483年、この年に流行した疾病で両親を亡くした。エラスムスと兄は後見人により共同生活兄弟団付属の寄宿学校に入れられ、「デヴォツィオ・モデルナ」(Devotio Moderna:新しき信心)の教育を受けた。 1487年、親族の意思に従ってデルフトに近いステインにあった聖アウグスチノ修道会の修道院に入った。このころからラテン語の古典を読み漁り、イタリアに行きたいという望みをもつようになった。キケロ、クィンテリアヌス、アウグスティヌス、ヒエロニムスなどの研究に没頭する。古典教養の重要性を説く『反蛮族論』の執筆を始める。 エラスムスは修道会司祭として生きていくことが本意ではなく、修道会を離れる機会を狙っていた。彼は1492年に司祭叙階を受けると、卓抜したラテン語能力を認められてカンブレー (Cambray) の司教秘書に抜擢され、合法的に修道会を離れることができた。1495年にはカンブレー司教の許しを得、神学博士号の取得を目指してパリ大学へ入学し、モンテーギュ学寮に入った。(モンテーギュ学寮では後にジャン・カルヴァンやイグナティウス・ロヨラも学んでいる。)1496年から自らを「デジデリウス」と名乗るようになり、『古典名句集』(Collectanea Adagiorum) を書き始める。
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