生い立ちとアメリカへの移民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/08 05:25 UTC 版)
「アーサー・セントクレア」の記事における「生い立ちとアメリカへの移民」の解説
スコットランドのケイスネス州サーソーで、1734年または1736年どちらかの3月23日 に生まれた。セントクレアの縁戚には初代ミントー伯爵ギルバート・エリオットや詩人のロバート・ルイス・スティーヴンソンがいる。セントクレアは、エディンバラ大学で学んだ後、高名な解剖学者ウィリアム・ハンターに師事し医学を学んだ。1757年、セントクレアはイギリス軍の士官を購入し、フレンチ・インディアン戦争に参加するため、エドワード・ボスコーウェン提督の艦隊でアメリカに向かった。セントクレアは1758年7月26日、ジェフリー・アマースト将軍指揮のルイズバーグ要塞占領に従軍した。1759年4月17日、セントクレアは中尉に昇進し、ジェームズ・ウルフ将軍の部隊に配属となりエイブラハム平原の戦いに参戦した。 1762年4月16日、セントクレアは退役し、1764年にペンシルベニアのリゴニア渓谷に土地を買い、粉挽き場を立てて入植した。セントクレアはペンシルベニア西部では一番大きな土地所有者であった。 1770年、セントクレアは四季裁判所と民事裁判所の判事となり、専売委員会の一員となり、孤児裁判所の判事、記録係、事務官となった。またベドフォード郡とウエストモーランド郡の首席書記官になった。 1774年バージニア植民地がピッツバーグ近辺の土地所有権を主張し、ペンシルベニア西部の住民が武器を取ってこれを排除することがあった。セントクレアはバージニア軍を率いる士官の逮捕を命じた。この時ダンモアの戦争が起こり、境界紛争が収まった。
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