生い立ちとお由羅騒動とは? わかりやすく解説

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生い立ちとお由羅騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 02:38 UTC 版)

島津斉彬」の記事における「生い立ちとお由羅騒動」の解説

文化6年3月14日1809年4月28日)、10代藩主島津斉興長男として江戸薩摩藩邸(薩摩藩上屋敷)で生まれる。母・弥姫周子)は「賢夫人」として知られ人物で、この時代には珍しく斉彬はじめ弥姫出生の3人の子供は乳母をつけず、弥姫自身の手養育された。また、青年期まで存命であった曽祖父8代藩主・重豪の影響受けて洋学興味をもつ。これが周囲の目に蘭癖映ったことが、皮肉にも薩摩藩二分する抗争原因一つになったとされる。 斉彬が次の藩主となれば、重豪のように公金湯水のごとく費やし財政困窮に一層の拍車をかけかねないと、特に藩上層部心配され、斉興は斉彬が40歳過ぎて家督を譲らなかった。また家老調所広郷や斉興の側室お由羅の方らは、お由羅の子で斉彬の異母弟に当たる島津久光擁立画策した。斉彬派側近久光お由羅暗殺しよう計画したが、情報事前に漏れて首謀者13名は切腹、また連座した約50名が遠島謹慎処せられた。斉彬派の4人が必死脱藩し、斉興の叔父にあたる福岡藩主・黒田斉溥援助求めた。斉溥の仲介で、斉彬と近しい老中阿部正弘宇和島藩主・伊達宗城福井藩主・松平慶永らが事態収拾努めた。こうして嘉永4年1851年2月に斉興が隠居し、斉彬が11藩主就任した。この一連のお家騒動お由羅騒動(あるいは高崎崩れ)と呼ばれている。

※この「生い立ちとお由羅騒動」の解説は、「島津斉彬」の解説の一部です。
「生い立ちとお由羅騒動」を含む「島津斉彬」の記事については、「島津斉彬」の概要を参照ください。

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