独学の科学者かつ気球操縦者
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「タデウス・ロー」の記事における「独学の科学者かつ気球操縦者」の解説
化学の巡回講義を行う事業は、子供のときに欠けていた教育を受けるために十分引き合うものだった。祖母の願いを叶えるために医学の勉強を試みたが、それは退屈であり、空気より軽い気体を使った飛行術という最初の興味の方に戻った。アメリカの気球乗りは柔軟な絹の袋を膨らますためにコークスガスを使っていたが、これは固定した枠組みに綿の織布を貼り、熱せられた煙を集めるために火の上に直立する当初フランスの熱気球に対抗するものだった。1850年代までにローは一流の気球制作者になり、見せ物師としての事業では通りがかりの者や催事会場の出席者を気球に乗せることで儲けを取り続けた。 1855年、ローの講義の一つで、可愛いパリ生まれの女優、19歳のレオンティン・オーガスティン・ガションに紹介された(彼女の父は政治難民としてアメリカに逃亡したルイ・フィリップ王の側近だった)。1週間後の1855年2月14日、ローとレオンティンは結婚した。この夫妻には7人の女子と3人の男子、計10人の子供が生まれた。ローはその科学的探求を続け、自分の気球を所有して、観測していた高々度の風に乗り大西洋を横断飛行するという粗野な概念を夢に抱いていた。ジョン・ワイズの著作『航空術のしくみ』に耽溺した。それには気球の制作、布の切断と縫製、気密保持について具体的な指示が書かれていた。 1857年、ローは自分の最初の気球を制作し、ニュージャージー州ホーボーケンの小さな農場で係留飛行を操縦した。ローの父も気球制作に加わり、自身熟達した気球乗りになった。1858年、さらに大きなエンタープライズ号など幾つかの気球を制作した。 ローは科学的試みを続けながら高々度の風に乗り大西洋を横断飛行するための余技も続けた。1859年にはシティ・オブ・ニューヨーク号と名付けた巨大な気球制作に取り掛かった。一方、ヨーロッパの株式市場に関心のある多くの者に大西洋横断飛行に関する見解を説いていった。そのころ行われた大西洋横断ケーブルの敷設は失敗しており、船旅は頼りにならないくらい鈍かった。ローは事業や科学的社会の隅々から支持者を集めた。特にスミソニアン博物館のジョセフ・ヘンリー教授は次のように書いていた。 スミソニアン博物館はロー教授の仕事や理論に早くから気付いており、その論ずるところが科学的にしっかりしていることが分かってきた。彼の天才の証拠を迎えることは大きな喜びと満足である。我々は彼の計画の結果を興味を持って見守ることになるだろう。
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