特許出願競争
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「アレクサンダー・グラハム・ベル」の記事における「特許出願競争」の解説
1875年、ベルは acoustic telegraph を開発し、その特許申請書を書いた。アメリカでの収益は後援者であるガーディナー・ハバードとトーマス・サンダースと分配することで合意し、Bell Patent Association の協定を成立させる。これが幾多の変遷を経て「ベル・システム」を完成させたAT&T (American Telephone and Telegraph Company) へつながっていく。そこでベルはオンタリオ州の知人 George Brown に頼んでイギリスでも特許を出願し、イギリスで特許が受理されたあとにアメリカで特許申請するよう弁護士に指示した(イギリスは、ほかの国で以前に特許を取得した発明には特許を与えない方針だったため)。 一方、イライシャ・グレイも同様の用途の実験を行っており、水を媒体として音声を電流に変換する方法を考えていた。1876年2月14日、グレイは水を媒体とする設計の電話について特許予告記載をワシントン特許局に申請した。同じ日の朝、ベルの弁護士もワシントン特許局にベルの「電信の改良」(Improvment in Telegraphy) の特許出願書を提出している。どちらが特許局に先に現れたのかについては議論があり、のちにグレイはベルの特許の無効を訴えることになった。2月14日にはベルはボストンにおり、2月26日までワシントンD.C.を訪れていない。 ベルの特許 (特許番号: 174,465)は米国特許商標庁によって1876年3月3日に認可され3月7日に公告された。ベルの特許の請求範囲は「声などの音に伴う空気の振動の波形に似せた電気の波を起こすことにより…声などの音を電信のように伝送する手段および機構」だった。 1876年3月10日、特許公告の3日後、電話の実験に成功。グレイの設計と似たような液体送信機を使っていた。音を受けた膜が振動し、その振動で水中の針を振動させ、回路内の電気抵抗を変化させる仕組みである。最初の言葉は「ワトソン君、用事がある、ちょっと来てくれたまえ」 ("Mr. Watson! Come here; I want to see you!") である。ワトソンは隣の部屋の受信機でそれらの言葉をはっきりと聞いた。 ベルはグレイの電話の設計を盗んだとして訴えられた(そして今も、そう考えている人々がいる)が、ベルがグレイの液体送信機の設計を使ったのは特許取得後で、しかも概念実証としての科学的実験でだけであり、「明瞭な声」を電気的に伝送可能であることを示すためだった。それ以降ベルは電磁式の電話の改良に集中し、グレイの液体送信機をデモンストレーションや商用に使ったことはない。 ベルの特許が発効する以前、審査官は電気抵抗を変化させるという電話の仕組みについて優先順位問題を提起した。審査官はベルに、請求範囲にあるのと同様の仕組みがグレイの予告記載にもあることを告げている。ベルは、彼が特許申請書で示している可変抵抗デバイスは水ではなく水銀であると指摘した。ベルは約1年前の1875年2月25日に水銀を使った特許を出願しており、イライシャ・グレイが水を使ったデバイスを申請するずっと前のことだった。しかもグレイは予告記載を撤回し、ベルの発明が先だったということに異議を申し立てなかったため、審査官は1876年3月3日にベルの特許を認可したのだった。グレイも確かに独自に可変抵抗を使った電話を発明したが、最初にそれを文書化したのはベルであり、最初に電話の実験を成功させたのもベルである。 特許審査官 Zenas Fisk Wilber はのちに法廷で、ベルの弁護士のマーセラス・ベイリー(英語版)とは南北戦争で一緒に戦った仲で、ベイリーに借金していたことを証言した。また、Baileyにグレイの特許予告記載を見せたと証言している。また、のちにベルがワシントンD.C.の特許局を訪れた際にグレイの予告記載を見せ、ベルから100ドルを受け取ったと証言した。ベルは一般論として特許について議論しただけだと主張したが、グレイへの手紙では何らかの技術的詳細をそこから学んだと認めている。ベルは審査官に金を払ったことはないと宣誓証言で否定している。
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