牡鹿軌道(馬車鉄道)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/01 14:18 UTC 版)
1910年(明治43年)10月に渡波町(石巻市)の久本保ら8名による人力車軌道敷設願が宮城県に進達された。この敷設願によると会社名は牡鹿人車軌道株式会社とし、資本金は1万5千円。石巻町湊田町から渡波町までの道路上に軌道を敷設し、人力による旅客及び貨物の運搬を8人乗り客車6両と貨車10両を使用し1日12往復する計画であった。1912年(大正元年)12月16日に特許状が下付され、工事が始められたが1913年(大正2年)8月には大海嘯の影響により工事が遅れたり、1914年(大正3年)10月に人車から馬車への動力変更願いを提出するなど変更があった。またこのころに社名を牡鹿軌道に変更した。ようやく工事が完成し1915年(大正4年)6月に運輸開始願いを提出したが検査で不備を指摘され、7月10日 になって石巻町湊 - 渡波町大字根岸字浜曽根間(2.14哩)の運輸が開始された。なお湊本町より南町間の110間は里道拡張工事に手間取り、開業が延期(大正10年5月31日開業許可)された。また9月17日から牡鹿軌道湊停留所と仙北軽便鉄道石巻駅間に連絡馬車の運行を開始した。 開業当初は盛況で客車はいつも満員だったという。その後1919年(大正8年)10月には動力を馬力から「自動機関車」 にする動力変更願いを提出している。大正11年下期には乗客収入数はピークになったが、1923年(大正12年)になると今まで湊停留所-石巻駅間の乗合馬車を運転していた業者が自動車により石巻 - 渡波間の営業をはじめ連絡運転をやめてしまった。やむなく自社で連絡用の乗合自動車を調達したが、他にも個人で乗合自動車業を始める者があらわれ馬車鉄道の旅客数は減少を止められなかった。大正13年上期の乗客数はピーク時の半分に落ち込んだ。この年は自動車購入費に加え、枕木の大量交換などで保守費の増加など収支は悪化していた。ついに1924年(大正13年)5月5日の臨時株主総会において金華山軌道との合併が承認され、牡鹿軌道は解散することが決まった。
※この「牡鹿軌道(馬車鉄道)」の解説は、「金華山軌道」の解説の一部です。
「牡鹿軌道(馬車鉄道)」を含む「金華山軌道」の記事については、「金華山軌道」の概要を参照ください。
- 牡鹿軌道のページへのリンク