清水動閑の流れ
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清水動閑(1614年 - 1691年)は、仙台藩祖伊達政宗の茶道頭をつとめた清水道閑の孫にあたり、茶道頭を世襲して道閑・道漢と名乗ったあと、仙台藩4代藩主伊達綱村より動閑と名付けられた。動閑は綱村の命により石州に入門し、相伝を受けて仙台に戻った。この流れを汲む流派を一般に清水派と称する。 動閑は弟子の馬場道斎(1662年 - 1737年)を改姓させ、3世清水道竿として茶道頭を継がせた。道竿は綱村の命により、石州の高弟でもあった松浦鎮信や藤林宗源にも伝授を受けている。以来代々、茶道頭として仙台藩に仕え、維新後も伝承されている。一方で動閑の実子である清水快閑(1651年 - 1716年)は医業を生業としていたが、その後代々伊達家奥向きの茶道を務めて、現在は石州清水流として伝承されている。すなわち、藩の公式な茶湯については道竿家が務め、快閑家の代々は道竿家より伝授を受けた上で奥向きの茶湯を務めてきた。 これらの経緯から、現在でも宮城県を中心とする旧仙台藩領内では清水派の茶道教室が多く、東北放送のカルチャーセンターでは千家・裏千家・清水派に加え、清水派と関わりが深い大日本茶道学会が講座を開いている。また伊達政宗の命日である5月24日に瑞鳳殿で献茶式を行う他、仙台・青葉まつりでの茶会など伊達家と関わりのあるイベントに参加している。 清水道竿家は仙台藩茶道頭として、参勤交代の折には江戸詰めになり、そのため旗本や諸藩にも清水派が伝播することになった。3世清水道竿門下の斎藤頼母(1670年 - 1716年)は5000石の旗本で、現在各地の清水派に連なる要の人物である。高松藩では5代藩主松平頼恭の頃に、斎藤頼母に学んだ片山五左衛門によって清水派がもたらされ、明治期になってさらに群馬に伝わった。土佐藩でも8代藩主山内豊敷の時期に斎藤頼母に学んだ高畠小平次によってもたらされた流れと、6世清水道看門下の中川道茂に学んだ茶堂の上村為山による流れとが合流して現代に伝わっている。これはさらに明治期になって広島、次いで東京や熊本に伝わった。一方水戸藩では、6代藩主徳川治保の時期に4世清水道簡に学んだ田中素白によって清水派がもたらされ、鎮信流が流入しながら現代に伝わっている。 他に、東京に3世清水道竿門下の谷村三育を初代として、幕府数奇屋組頭を代々世襲し谷村家で伝承された嘉順派が伝わっている。9代家元森田嘉順は23年2月に元職を辞任し、現在は流儀事務連絡所が一括取扱を代行する。特異なものとしては、はじめ古石州流、その後清水派の野崎兎園に学んだ浅田宗恭の流れや、その門人で井澤宗達(1891年 - 1972年)の流れなども清水派から派生したものと言える。特に井澤宗達の流れは片桐宗家に伝えられている。
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