消灯運動と沈静化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 21:10 UTC 版)
「中部電力 (1930-1937)」の記事における「消灯運動と沈静化」の解説
交渉が停滞する中、1930年9月、市会の電気料金調査委員会は電動力需要組合と市内各町の総代(町内会代表者)を集めて協議会を開き、市民運動への転換を図った。12月になると、再編の結果成立した中部電力は、委員会の要求とは異なるものの一部電灯・電力料金の引き下げに応ずると市当局に回答する。これに対し市会・総代会・電動力組合の3者による連合委員会は運動存続論・打切り論が相半ばとなり論戦となった。 翌1931年(昭和6年)2月、連合委員会では総代会から強硬な主張が出て、引き続き電灯料金の2割値下げを要求することに決まった。さらに会社側が要求を拒否する場合には、実際に料金の2割を支払わずにその分を総代会に供託することで抗争する、という方針も打ち出した。かくして料金値下げ運動は総代会が主導する市民運動に発展する。総代会の滞納運動に対し、会社側ではこれを拒絶して社員総出の集金・督促に打って出た。会社の動きに対して総代会の主張は強硬化し、料金2割の滞納運動以外にも減灯・減燭などを奨励し始める。さらに会社の態度は横暴そのものであるとして電気市営化の陳情を市長や市会議長に提出した。 5月、会社側は運動の急先鋒であった西小田原町にて、一部家庭の断線(供給停止)という措置に踏み切った。これを受けて西小田原町内では町内一斉の「同情消灯」で対抗し、これを契機に市内全域に消灯運動が広がった。消灯からさらに踏み込んで減灯・廃灯を決議する町内会が相次ぎ、やがて市内の目抜き通りに設置されていた街灯の明かりも大部分が消えていった。 消灯運動に発展しても値下げ交渉は進展せず、総代会は会社側を無誠意であると非難し、市内一斉の廃灯と会社側との絶縁を決議するという事態にまで発展した。ところが6月になると、市民が消灯に飽きたことで消灯運動が下火になり、徐々に電灯が点き始める。1か月間消灯を続けていた西小田原町も6月に入り一斉に復灯し、総代会も分裂して会社側が豊橋市に一定額を寄付するという代替案で妥協するべしという声も出始めた。一方、中部電力豊橋営業所では、5月1日からの損害額を6月13日に発表。それによれば減燭30万燭、廃灯7万燭、休灯2万9千燭、合計40万燭に及び、臨時の養蚕灯や扇風機の増加による増収を打ち消して月額4万円の減収となったという。 7月、豊橋商工会議所が紛争解決に乗り出す。一方で総代会側は一斉廃灯を決議した手前、復灯が相次ぐ中で会社に対して積極的行動に出られなくなっていた。8月、値下げには応じられないがそれに相当する代案であれば解決に向けて交渉する用意がある、と会社側は仲介を商工会議所へ申し出るが、最終的に仲介に失敗して商工会議所は退出してしまった。解決しないまま10月を迎えると値下げ争議は市民の関心を失う。ここに至って総代会は代案解決やむなしとして会社側と交渉に入り、10月31日に中部電力が総代会(「豊橋市電価問題代表者」)に7万円を寄付するという内容の覚書を交わして妥結した。かくして紛争は終結し、総代会側は中部電力から寄付金を得て一部を西小田原町への見舞金とし残りを市内全戸に分配したが、長期にわたる運動の成果は1戸あたりわずかに3円60銭であった。
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